薔薇を見ながら何を想う

 たぶんまだ薔薇は満開だ。いや、それどころか私が薔薇園に行った一週間ほど前の日曜日と比べると、今の方が盛りなのかもしれない。そして、今日は小雨で寒くなった。さきほどコンビニエンスストアまで買い物に出たが、家からコンビニまでのあいだのバス通り沿いは殺風景で、ありふれた駐車場や薬局、あるいは歯科医院と週末だけ営業する小さなパン屋があるだけだ。薔薇の花はその短いあいだにどこにもなく、どこかからウグイスの声が聞こえてきた。

 帰宅してこうしてブログを書くために使う写真を選ぶ。ブログに使う写真はその日や数日以内に撮ってきたものや、数年前の同じ月に撮った写真を見直してあらたに選んだ数枚から十枚くらいの写真を、フォトショップでブログ用にちょっとだけ加工してストックしてあるフォルダーから選ぶ。この写真は2016年だったか2017年だったかに平塚市にある薔薇園で同じ五月に撮ってあった。ちょっとだけ加工、と書いたのは、この写真の場合はモノクロにしてノイズを与えてコントラストを少し上げる、という作業だった。それからブログ用のあまり重くない画素数に変えること。

 選んだ写真には薔薇を見ている帽子を被った年配男性の後ろ姿が写っている。後ろ姿の佇まいは、熱心に薔薇を見ては、美しい!と感動しているようにはなぜか見えない。実際はそうなのかもしれないけれど。薔薇を見に来たけれど、別のことを考えているように写っている。それは目下の自分の抱えている小さな懸念を心配したり、解決しなくてはならない課題をどうしようかと考えを巡らせたり、あるいはなにか昔のことを思い出して懐かしく思ったり、後悔したり、そんな風にも見える。

 写真を夢中で撮る。撮る行為に夢中になっていることはそれはそれで楽しい時間だ。だけど、ちょっとカメラを仕舞って、写真的視線で撮るべき花や構図を探すこともやめて、深呼吸をして周りを見回し、繰り返すが『目下の自分の抱えている小さな懸念を心配したり、解決しなくてはならない課題をどうしようかと考えを巡らせたり、あるいはなにか昔のことを思い出して懐かしく思ったり、後悔する』ことも大事な時間なんじゃないか。あるいはそういう時間のあとに、はじめて薔薇の写真を撮りはじめるべきなのではないか?と写真を見て思う。

 夢中で撮ってきた写真を見ながら、夢中で撮った自分を反省するような気分になっているのが、今日のこの雨の、静かな土曜の午前こと。

追伸)土曜午後、写真に手を入れてみました。森山大道写真集のライト版の「光と影」(角川)を教科書にして、何か所か追い焼き/覆い焼きを入れてみました。遊びですね(笑)