分量の問題

 今日も南風が一日中吹いていた。街路樹や公園の木々が、風に煽られて葉の裏側を一斉に見せてしなる。そういえば、毎年この五月のはじめの連休中に、こういう風の強い日があり、そのたびに風にしなる木にカメラを向けていることを思い出す。一枚の静止画写真になると、そのしなる動きのダイナミックさを写し取ることが難しい、と、これも毎年思うことだ。そして須田一政の東京1980に収められている街路樹の柳が風に煽られて一斉に右方向へ流れている写真を思い出す。須田さんのあの写真は、写真なのに木は風に煽られてちゃんとしなって、動いて、風に葉擦れの音を感じる。

 午前、カフェに行き、一時間半ほど読書をする。読書中は阿部昭の「緑の年の日記」で、この小説の日記部分が本当に若かりし20歳の阿部昭が書いたものなのか、本作品が完成した1984年に小説としてそのときに書かれたフィクション日記なのか、そんなこともよくわからないまま読んでいる・・・たぶん20歳の頃に書いた日記を下地にしてそれを私小説風に仕立てた虚実入り混じった作品なんじゃないかな・・・。その単行本の101ページに、この年、阿部昭は東大の大学生なのだが、フランス文学者中島健蔵の授業で、中島が『(小説を書くための鍛錬として)彼(中島のこと)はまた、想像力と類推と記憶力とによって、すべての人間をまず外面から型として捉まえた。イメージ、イメージ、イメージで押すこと。着物は・・・髪の色は・・・目つきは・・・物の言いざまは・・・歩き方は・・・つまり人物の顔が浮かんでくること。われわれはぼんやり生きているのではない。撫でるように、舐めずるように物を観察することを怠ってはならない。これすなわちレアリスムの第一条件である。レアリスムは分量の問題である。』と教えたと書いてある。

 路上スナップはまず撮影枚数、分量が多いことが必要条件だ、と、森山大道はじめ、多くのスナップカメラマンが言っている。上記の引用した部分は、観察した分量によって物語の登場人物に個性を書き分けられる、だから作家を目指すのであれば、まず徹底的に観察する、その分量の問題なのである、と説いていると解釈した。さて、作家が書く小説と、路上スナップを身上とするカメラマンが撮る写真とで、この分量という単語の持つ意味は、ぜんぜん別の話なのか、どこかに類似性があるのだろうか、などとハニーウーロンティーラテというちょっと甘すぎる飲み物をすすりながら考えた。分量を撮るということは、言い換えると、分量を撮ることが出来るということ。分量を撮ることが出来るということは、路上なり街なり、こうして砂浜でもいいんだろう、とにかく自分の目で「外界」を見ているときに、どこを撮るかという発意がとても頻繁に自動的に起きることが出来るということ、そしてそれが出来るのは外界を観察して観察して、分量を撮って撮って、の繰り返しのなかで撮ろうと発意できる「そこここ」を定められる、あるいは見つけ出せるスキルを有すること、と解釈できるだろうか。十年以上前にNHKが放送した森山大道特集のなかで森山さんが「とにかく目はレーダーのように次から次に先を見てるよね」(正確ではないですが、多分)と言っていたのを思い出した。最後は小説になるか写真になるかの差こそあれ、ある視点に立てばということだろうけれど、観察した分量が最後の作品に結実するってことで類似性を感じた。

 写真は昨日、茅ケ崎海岸にて。