生きた痕跡 生きている五感

 20日の午後、仕事を抜け出して、上野の国立博物館まで内藤礼「生まれておいで、生きておいで」を観に行きました。二週間か三週間前の日曜美術館を見て行きたくなったミーハー鑑賞です。
 ウェブで日時指定チケットを取るまでが大変でした。予約できたのは水曜日18日。予約にトライし始めたのが火曜日の夜。会期は23日までだからその時点で残り六日。基本は全日完売でした。だけど小さな字で「キャンセルが出た場合に販売することがあります」と書いてある。へぇと思って見ていたらたしかに数十分から一時間に一回くらい、ふっと完売が消えて受付されるんですね。受付されるのはある日のある時刻だけ。その日時に行けなければ諦めるしかない。そんなわけで火曜の深夜と水曜の午後は長い間スマホとにらめっこしていました。最初に行けそうな日が空いたときは、名前を入れ生年月日を入れ、性別や電話番号や郵便番号も入れ、それからクレジット情報も入れ終わり、最後に購入ボタンを押すと、売り切れましたと出て来て買えませんでした。そして、この入力スピード競争に、三連敗くらいしてました。そのうちに買えずともいろいろ入力した画面に留まり、次のキャンセルを待てることを発見しました。それで次に行けそうな日時のキャンセルが、数時間待ち続けてやっと出たときに、記入済画面から購入ボタンを押したら、とうとう予約出来ました!
 不思議な展示でした。人が生きてきた痕跡を丹念に見つけて行くような、人だけでない石の歴史、木々の四季、鑑賞者自身の個人史、そういう時間の中に否応なく残されている些細な生の痕跡を愛おしく見つめ直す動機や機会に気付かされるような。もっと乱暴に言うと、よくわかんないけどいつまでもそこにいたくなる、ほっと出来る、そう言う展示でした。会場にいる人数が決められているので、入場待ち列が、予約した日時であっても出来てしまい、30分くらいじっと静かに、内心は少しいらいらと待っていましたが、会場に入るとそんな待ち時間のいらいら感はすぐに消えてしまい、理由を言葉で説明できないところで、ここにずっと居たい、と思わされるようでした。
 帰り道に上野駅まで上野公園の林の中の道を歩くと、小さな枝や葉が落ちていました。その無数の落葉の一枚一枚や折れた小枝の一つ一つが全部時の流れの痕跡に見える、どの一枚どの一本を拾ってもそれがすべて作品のように思えました。
 会場は撮影禁止なので写真はありません。でもこの展示は世の中の見方、原始的?な見方を示しているので、ここを撮らなくても外を撮ることがここを撮ることと等価だよね、と言う感じがしました。と言うより、写真なんか撮らなくて良い。ただ五感で感じてそこにいる、博物館から地続きで歩いてきた今ここまでの全部で感じたことが、同じく生きてると言うこと、そう言う自覚です。

 話変わって。朝(9/20)出勤のために車に乗ってエンジンを掛けたらナビの声が今日は空の日だと言いました。そのあとNHKラジオでは今日はバスの日だと言いました。
 空の日を調べると
「1911(明治44)年9月20日に、山田猪三郎が開発した山田式飛行船が、滞空時間1時間の東京上空一周飛行をしたのを記念して制定されたものです。」
とありました。そこで山田式飛行船を調べるとそれを写した古写真が出てきます。山田猪三郎は和歌山の人だそう。大崎から品川まで初めての国産飛行船として往復したとか。大崎と品川って徒歩でも30分もかからずに歩けます。それでもちゃんと推進力を生んで方向舵もあったんだよね?と思ってしまいました。
 バスの日を調べると
明治36年1903年)9月20日京都市(堀川中立売(なかたちうり)~七条~祗園)において二井(にい)商会が日本で初めてバス運行を行いました。当時はバス車両がなかったことから蒸気自動車を改造した6人乗り(幌なし)の車両が使われました。これを記念して、厳しい環境の中で地域の足の確保に努めるバスを皆様に見直していただくために、「いつでも、どこでも、みんなのバス」をテーマに、1987年(昭和62年)に日本バス協会は毎年9月20日を「バスの日」に定めました。」
 いま堀川通を下ってきて七条で左折し東進し、途中すこし迂回して京都駅に立ち寄ってもいいけれど、いずれ七条を、東大路通まで進んで左折し、祇園というか八坂神社前に至る系統は、調べたけれどなさそうです。堀川通ではなく千本から下ってくるのならば例の有名な?206の下半分はそんな感じかもしれませんね。
 206番のバスと言えばもうずいぶん前に哲学者の鷲田清一さんの書いた京都の平熱って本を読んだことがありました。読んだことは覚えてるけど中身はまるで覚えてないのです。いつものことです。

 写真は8月上旬に松本市へ行ったときに車を停めた駐車場で、停めた階数を忘れないようにと、スマホで撮ってあった写真です。台形歪は後処理で補正しました。撮るときに、備忘のためだけで、なんの欲もなかった写真。