年々白髪が増えて行き、いまはどうでしょうか?白髪7対黒髪3くらいの混じり具合でしょうか。髪は若いときより、細くて乾いている感じで、ますます枯れ薄のようであります。さらに、それと同時に、最近は前の方の髪の量が減少していて、地肌がのぞけるようになってきました。白髪割合が増えるのは構いませんが、総量減はちょっと嫌だなあ、などと、朝に鏡の前で歯を磨き、寝ぐせ直しウォーターを吹きかけて櫛をちょちょいと通すときに、そう思いました。秋進むって感じの逸話でしょう?・・・違うかな。
10月になり久しぶりにマニュアルフォーカスのフイルムカメラを使いました。いちど使うと数本一気に使ってしまいます。いま、36枚撮りのネガカラーフイルムはだいたい一本1900円~2500円くらいでしょうか。一番安かった20年くらい前の5-7倍の値段ですかね?でもフイルムで撮ると、なんかやっぱりデジタルとは違うような気がします。だから以前の価格がどうのこうのではなく、フイルムカメラを使いたくなるときがあるのです。フイルムで撮るときは、立ち止まり時間を掛けます。数秒の時間ではありますが、そういう撮り方の積み重ねが、まわりの今の光景を、ゆっくりと見まわし、見定め、受け入れ、光をひとつひとつ集めて行く「採集していく」感じがするのです。ちゃちゃっと速射で次々撮って行くデジタルとは自分の気分がだいぶ違います。どちらがいいとか悪いとかではないですね。もしかすると、オートフォーカスではなくマニュアルフォーカスで撮っていることもその差を感じる理由になっているかもしれません。わたしはデジタルカメラに古いマニュアルフォーカスレンズ、いわゆるオールドレンズを使うこともありますが、ではそういうときにも上記の「採集していく」感じを覚えているか?というと、フイルムのときほどではないと思うから、マニュアルフォーカスも理由のひとつかもしれませんが、それひとつが大きな理由になっているわけではない、やはりフイルムであることが関連していそうです。すぐには撮った結果が見えない、近未来へ持ち越されること、それが遡っていまの、撮っているときの気分に影響するのでしょうか?
古本屋の店先にワゴンならぬ木製の箱、実際にそこに蜜柑が詰め込まれて運ばれて来たわけではないかもしれませんが、いわゆる蜜柑箱と言われるような箱に、特価本が売られていました。しゃがみこんで箱を覗き込み、気になる本をちょっと手に取り捲ってみて、また戻します。そんなことを数冊繰り返すうちに、読んでみようかな、と言う本に出会う。同じように本がたくさん並んでいて、そこから読む本を選ぶことは「おんなじ」はずの新刊本書店で本と出合って読んでみようかなと思うことと、古書店の蜜柑箱でそう思うことは同じなのでしょうか?上記のフイルムカメラとデジタルカメラで撮るときの気分に違いがある、そのことと似て、どうも古本屋で買う本は、たとえば同じ本が新刊書店でも売られていたとしても買わないんじゃないだろうか。古本屋で本を買おうとしているという行動の前提から発して、私自身の読みたくなる本を決める尺度というのか、決定基準、今風に言えば自分の心のなかの購買決定アルゴリズムが新刊書店アルゴルと古書店アルゴルで違う気がします。もしかすると、古書が新刊本かではなく、それ以上に本屋の持っている雰囲気によりアルゴリズムが動いているのかな、だって同じ新刊本の書店でも、買いたい本がつぎつぎに見つかる店があれば、そうでない店もあります。そしてそれも私自身のその日の気分にも左右されている。あるいは同じ古書でも店の外に置かれてる特価本のワゴンや蜜柑箱で本をさがす、日に当たりながら探すことは、店内に入って本を見ることとアルゴルに違いをうむのか?なんて考えると、無限にありそうな現場の細かな差によりアルゴルは違う、結局はアルゴルなんかではなく気分が違ってくる、と言うか気分が左右されて、それで買う本の選択に変化をうんでいるという受け身の購入なんですかね?
あ、先日その蜜柑箱から買った本や新潮選書の宮脇檀著「男と女の家」でした。
昨日のJリーグの湘南対広島は15位だった湘南が2-1の逆転で首位の広島に勝利して、湘南は13位になり、広島はそれでも首位を維持し、湘南サポーターの私は大喜びしていて一日経った今日もダゾンのダイジェストを見直しています。こういうときに、なぜあなたはうきうきしているのか?と問われれば、湘南が勝ってうれしいからです、という理由の説明はまず間違っていないでしょう。
だけど、もうすこし直接的ではないことに理由の説明を求められたときに人が答えているその理由って、あとから都合よく作る、それも作為的とかそういうことではなく自動的に無意識的に、自分でも行動の意味をわからない、先に行動が出てしまったから、そこに納得性の高い理由を付けて安心しようと、嘘とは言わないけれど、あとから考えていることが意外に多いんじゃないかな、と思うことがあります。上記の本を買う理由も、あとから、こういう本をちょうど探していたとか、この作家のことがずっと気になっていたとか、理由を付けることが多そうです。そしてそうして作った理由に自分自身が納得してしまい、以降その理由を正しいものとして自分で採用しているんじゃないか。だから上記のアルゴリズムをこれ以上納得性のある理由で言葉で説明するのは大抵適当にうまい理由をでっちあげたってことに過ぎなくなりそう。正しいのは本屋のありかたと自分の気分の合致の結果いまこうしてこの本を買っていた、それだけのこと、なのではないか?それ以上の説明はなし、ただその合致の結果、そのときには読みたいという心になっていた。理由は不明。同じく最初の方に書いたフイルムカメラを使うときのデジタルとは違う気分になるということも事実があるだけで理由は不明。
でもこれは極端であって、それなりのところまでは理由はわかるわけですけどね。だけどそっちの本ではなくこっちを最後に選んだ理由は?とか、ここは撮ろうと思ったけれど結局は撮らずにいて、そこは撮ったという違いの理由なんかは、なにか言葉で理由を言っても大抵は後付けの言葉で自分を納得させているだけじゃないかな。
以前、もう何年か十何年前かもしれない、テレビ番組でこんな実験をやっていました。若い男性(女性)に若い女性(男性)の顔写真を次々と見せて、男性(女性)の心に起きる動揺というのか、その番組では「おっ!いいな」という、相手に好意を寄せる最初の心の動きが起きるまでの時間を測る実験でした。そのテレビを見たのはもうずいぶん前だから間違って覚えているかもしれないと最初に断っておいて・・・。その心の瞬間の心の動きが頭を経由して理由があってそののち決定している時間よりはるかに速いという、もっと原初的にその人に刷り込まれている決定要素で瞬間的に決まっている。異性の選択も、言葉による理由に基づいて検討された決定ではないとのこと。最初はね。そのあとにいろんな現代の価値観とか趣味嗜好とか生活条件などなど、言葉により説明がつく理由によって、最初の決定に多大なる変更がおきるわけですが。
大した責任が発生せず糾弾も受けない、そこを写真を撮るとき、この本を買うことにしたとき、などは、けっこう原初的な言葉では説明できない理由によって決められているんじゃないだろうか。
ところで、上記の、言葉以前の瞬間的判断で異性に惹かれるという話、その瞬間の決定を突き動かしているのは何か?それについてこの番組では、たしか、結局は生物学的な繁殖の可能性を相手の写真を見た瞬間に感じているからだという説明をしていたと思います。すなわち、それこそ「理由」の説明になっていましたが、この理由は後付けじゃないんだろうか?
いちばん上の写真はフイルムで撮ったものですが、でもこれはけっこう作画したり通行人を待ったり、これは書いて来た話とは違ってたぶんに言葉による理由に基づいて撮っている感じがします。