確認すること

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退院後もしばらくはいろいろと暮らしの制約があるものの、ウォーキングはいくらでもやった方がいい、と医師は言う。右の脇腹が若干ひきつるものの今日もウォーキングに出る。昼少し前。Tシャツの上にカーディガンを羽織っていたが、すぐに暑くなった。着ていたTシャツは2017年くらいかなジャクソン・ブラウンが来日公演をしたときのツアーTシャツで、三枚目のアルバムLate For The Sky、夜の室内に電灯がついている住宅とその前に停められた古い自家用車のジャケット写真がそのままTシャツにプリントしてあるものだ。一般的にツアーTシャツはダサいものと言われているらしい。風が強い日が多い。雨の日も晴れの日も、なんだかいつだって風だけは強く吹いている。風にあおられて、夏草や木々の緑が常に揺れている。揺れると葉裏が見える。葉裏は葉の表よりたいていは白っぽいから、銀色に煌めいて見えるのだった。この写真の川沿いの路だったか、ここに至る手前の坂道だったかで一人の同年配の男性、やはりウォーキングをしているらしい男性とすれ違う。男性の視線が瞬間だけど私のTシャツの絵柄に絡みついたから、たぶんジャクソン・ブラウンのLPジャケットの図柄だと知った人だったのではないだろうか。川沿いのこの道を歩くのは3週間ぶりくらいかな、4週間かな。そのひと月くらい前に来たときには、すでに燕は飛んでいたものの、鴨の仲間の鳥だって白鷺だってたくさんいたが、今日は見当たらない。種類によっては北へ渡り、種類によっては川辺の草の中で子育てのために隠れていて、種類によってはもともとこの時間には見えないところにいるもの、なのだろうか。ちょっと歩きすぎて疲れてくる。家の周りを家を中心にぐるぐると歩くコースであれば疲れたら早々に帰宅できるのに、なんでこんなブーメランの軌道のようなコースにしてしまったのか?歩けるスピードが落ちたので木陰のベンチに座ってしばらく息をついた。ベンチから川沿いの道に戻る細い道を上ると向こうから犬を連れた人が降りてきた。道は細すぎてすれ違えないが犬を連れた人が脇によけてくれる。犬も脇によけてじっと待っている。ありがとうございます、と飼い主と犬の両方に頭を下げた。ジャクソン・ブラウンのこのアルバムの最後に入っている「Before The Deluge」の和訳をちゃんと読んだことはないが、たぶん富や便利をもたらす技術の発展の向こうにとんでもない大事故が起きるようなことを警鐘している感じだ。ウイルスのパンデミックもこの歌に比喩された事例の一つなのかもしれない。そんな歌詞の中にLet The Music Keep Our Sprit Highというところが出てくる。そこだけよくフレーズとメロディを覚えていたから頭の中で繰り返し歌う。曲がフェイドアウトしていく辺りでたぶんデビット・リンドレイが弾いているフィドルが旋律を取るところがある。そこのフィドルの旋律も頭のなかで何度も再生する。

帰宅してiPODに録りためたものやSpotifyから流れる音楽ではなく、久々にCDをちゃんと聴こうと据え置き型のCDプレイヤーにチック・コリアのCDをセットしたが、ディスクエラーで再生ができないのだった。だいぶ前に買ってあったCDの読み取りレンズをクリーンにするためのクリーニングディスクがあったので、それを一度かけてみる。まだ駄目だったので、もう一度かけてみる。するとCDがちゃんと認識されるようになった。そこでやっとチック・コリアのCDを再生出来た。そんなに大きな音は出さない。音楽を流しながら文庫本を読み進むがすぐに眠くなる。オリジナルのLPにはその曲は収録されていないのにCD化されるとLPには採用されなかった演奏(別テイクや別の曲)も収録されていることが多い。本当はこういうボーナストラックはオリジナルのアルバムにはないのだから、別ディスクに分けるなどして、オリジナルアルバムはオリジナルアルバムとして完結した方がいいんじゃないか?それがアーティストの表現をちゃんと受け止めるということで、ボーナストラックはジャズ史の学術的分析かなにかを試みるときだけでいい・・・とか思うが、そのボーナストラックにオリジナルには入っていないスタンダード曲のコンファメーションが入っていて、この演奏がとてもいいのだった。学術的意味とは関係なくいいのだった。

なんだか一日が通りすぎるのが早く感じる。入院して退院してもう少しさきまで会社を休んでいる。仕事をしていると、とある案件が日々変化したり対応したり節目節目となる会議やプレゼンがあるから、日々の進捗とかが見えやすい。日々が自分の制御下にある感じになれる。入院して退院するまでは予定がぎっしり書かれたスケジュールに沿ってしっかりこなしてきたから一日が区切られてわかりやすかったのが退院後になり急に、あまり起伏のない時間が早く通り過ぎる感じがしてしまうのだった。

コンファメーションはチャーリー・パーカーの作曲だが、なぜこの「確認」という意味の単語が曲名になっているのかは不明らしい。でも大事ななにかを見失わないように、確認をしていかなかないと、一日はどんどん過ぎて行ってしまいそうだな。

今年の夏に使うサンダルを買うことにしてKEENのとあるモデルをぽちりました。サンダルなんて数年ずっと使っていたから新調するのはだから数年ぶりだ。

Late for the Sky

Late for the Sky

  • アーティスト:Browne, Jackson
  • 発売日: 2014/07/29
  • メディア: CD
 

 

 

ジョナサン

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24日月曜日、予定より数日早く退院できました。

これは5年くらい前に撮ってあった写真。カモメ?撮影場所は不明です。高校生の頃住んでいた神奈川県平塚市の家のそばに、平塚市と大磯町の境界になっている金目川の河口があり、そこでずいぶんいろんな写真を撮った。あの頃、というのは1970年代の前半、金目川河口の砂浜にはちょっと小石が集まったようなところがあっただろうか?そういう浜の様子はもう覚えてないが、写真のカモメよりもっと小さくてすばしっこいコアジサシが飛んでいた。その頃、ちょうど「かめものジョナサン」という本が流行った。平塚市のさくら書店で買って読んだ。物語の詳細は覚えていないし、面白くもなかった。というかよくわからなかった。精神世界の目指すべきところを示唆するような話だったのかな?とにかく、よくわからなかったとは言えなかった、それは当時の(インテリ?)高校生のプライドみたいな変な感情かな。著者のリチャード・バックの、そのあとに出た「イリュージョン」という本は好きでした。いまも本棚にあるけれど、そういえばいつのまにか内容は全部忘れているな。シンガー・ソング・ライターの吉川忠英さん、いまはギタリストとしてときどきSONGSなどの音楽番組でバンドのミュージシャンの一人としてテレビに映ることもあるようです。70年代に出た吉川忠英の♯29とイリュージョンというアルバムは、佳曲ぞろいの丹精なアルバムだったと思う。イリュージョンというアルバムはこのリチャード・バックの本をイメージして作られたのではなかったかな?「さすらいの宇宙船」という曲がとても好きだったな。

書いてから気が付いたのですが、上の文章は2013年の12月23日に私がこのブログに書いたこととほぼおんなじでした・・・(笑)

 

写真の見え方が変わる

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なんとなく続き)写真があるからそこから思い出せることがあって、なければ思い出せなかったわけで、写真があって良かったなぁと思う。一方で、思い出さなくても良かったことまで、写真なんかがあるせいで思い出させられてしまった、と言うこともあるかもしれない。善悪と言うか功罪とは、ちょっとした迷惑も罪のひとつとカウントすると、ひとつも罪を生まない功も、ひとつも功を生まない罪も、ないことが多いのかもしれないな。特に前者は滅多になくて、こちらを立てればそっちが立たず、と、功が価値を生むのなら今度は価値の均等分配が気になり出すのが、世の常。後者(ひとつも功を生まない罪)はあるかもしれないから、よほど注意が必要だ。

病院のベッドにひとりいるといつもより耳が捉える音に意識的になる。昨日は風の音が凄かった。今日(朝時点)は静かな日曜日だな。遠い病室で誰かが電話している。それが穏やかに会話している男性の声だとわかるが、話の詳細は聞こえない。話(=言葉)が聞き取れないのに、男性が穏やかに電話で話している、と認識される。なんか人の認知能力って凄いものだな。たまに窓ガラス越しに鳥が囀ずる声が聞こえることもある。でも天井のエアコン吹き出し口から、エアコンは消してあるのに、換気システムの空気が作る微風の音?が唯一の音になるくらい静かだ。

写真は2019年、池袋の駅近くのビルの上階にあるレトロな喫茶店で、たまたま窓際の席に座ったら駅前の横断歩道が見下ろせた。窓ガラスに反射したなにか赤っぽい光も写ってる。コロナ禍のいま、この写真を見ると、駅前を歩いてる人達の作る光景はほとんどいまと変わらないようにも見えるが、マスクの有無と言う小さな差異に気が付くと、写真の見え方も変わってしまうのだろうか。写真に小さく写っている人はだれもマスクなんかかけていない。

2011年の4月にTravis Lineと言うタイトルの写真展を開催したときは写真の選択を終えて、A2サイズとA3サイズのプリントはWebからプリント業者に発注し、DMも制作をはじめて準備を比較的余裕を持って進めていた、その最中に東日本大震災が起きた。選んだ写真のなかに、相模川下流の河川敷にある廃車となった自動車の解体現場を撮った写真があって、ある廃車が積み上がった廃車の塔にはそのてっぺんにminiが載っていた。その写真、わたしがそこを撮った動機や、展示作品に選んだ理由は、うまく言葉に出来ないが・・・荒野があり、広い土地があり、廃車処理場には人影なく、青空があり、すなわち都会ではなく、そう言う現場で働く男たちがいて・・・と言うところを舞台にいろんな物語があって、ここではないどこかに=旅へと誘うような夢と鬱屈が写ればいいとか思っている(いちいちそんなことを撮るときは思ってないが、撮る理由を考えるとこう言うことが嗜好にあるんじゃないかな)のではないか。サザンロックやカントリー・ソングのような印象だ。決して暗いわけではない。ところがその写真を震災後に掲示するのをすこし悩みました。そこから津波に流されて廃車になって転がっている被災地の様子の方が(サザンロックの雰囲気とか言うより)はるかに想起させるのではないかと思ったからだ。

池袋駅前交差点の写真はさておき、技術的には例えばJPEG形式のファイル名にひもづいた、不変の変わらない写真データがあるが、その写真データをモニター表示かプリントした「写真」はひとそれぞれでも、同じ人でもいつ見たかでも、見え方や感ずるものが変わる。写真データは不変でも写真は変わっている。

ハンバーグ

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たまにせいぜい20年弱前までのある日付を選んで、その日に撮った写真をモニター画面に読み出して眺める。デジタル以前のフイルムカメラで撮っていたころの写真も、ある程度はデジタル化してあるもののそこまで見返すことは少ない。なにか目的があるときもあれば、ふとした気紛れでn年前の同じ頃に撮った写真を見てみようと思い立つときもある。この入院に際しては、ブログを書くときに記事に添える写真を選んでスマホに入れておく作業をしたが、そのときも適当な過去の日付のフォルダーから選んでる。目玉焼きのせ鉄板ハンバーグの写真があった。選んだときに気を付けておけば良かったが、撮った日付をメモしないまま、すこしフォトショでトリミング等の加工をして名前を変えてしまったので日付はわからない。写真を見なければこの外食をしたことなど思い出さなかったに違いないが、前後に撮られていた写真から、藤沢駅江ノ電デパート側に出てからちょっと歩いた雑居ビルの地階にあるステーキ店の昼のランチ(ビーフ100%ハンバーグだったのかな)で食べたことを思い出した。たぶん近くのベトナム料理屋で昼を取ろうとしたのが休みで、その隣の大衆中華の店のまえですこし悩み、気分ではないとかの理由で、はじめてのこの店にしたのだろう。と、ここまで書いてこの続々ノボリゾウ日録の記事を「ハンバーグ」で検索したら2015.9.15の記事にその店に行ったらしく、けっこう詳細な食レポが書いてあった(笑)。一方でこの写真は使われてなかったのでほっとする。入院前にこの写真を選んだときには上記の過去記事に書いてあるトッピングに悩んだことや美味しかったソースのことはもう写真を見ても思い出さなかった。繰り返すが、かろうじて、藤沢の江ノ電デパート側のすこしだけ駅から歩いたビルの地下の店だったことだけ思い出していた。
さて、ハンバーグに関して。ひとつ前のブログ記事にサイクリングコースの思い出を書いたけど、その同じ小学生の頃に、わたしがハンバーグを食べるのは平塚駅前にあったペコちゃん人形が置かれた不二家洋菓子店の2階レストランと決まっていた。いま思うに、ハンバーグは不二家の楽しみであり、家で食べるものではない(家で簡単に出来るものではない)と思っていたんだろう。いや、もしかしたら、母に言わせると、ちゃんとあんたが小さい頃からわたしは作っていたし、好きだったじゃないの!忘れたの?やぁね!となるかもしれないが母の記憶も霞んでいるから、実際は、どうだったかしら?忘れちゃった、と言うんだろう。

昭和2年生まれの亡き父が自分の若かったころのことをわたしにどれだけ話していたのか、そして私は父の思い出話等にさほどの興味もなく、その時点時点での子供の世界の私的または学校での流行に夢中なあまりそんな父の話なんかほとんど忘れているんだろうな。ただ、不二家のハンバーグを美味しい美味しいと食べてる子供のわたしに、(父が)子供の頃にはそんな料理はなかったしハンバーグって言う単語もついこの前まで知らなかったんだと言ったことと、それはドイツにあるハンブルグの料理なのかな?と言ったのを覚えてある。子供のわたしはハンバーグはずっと昔から不二家にあってあり続けてきたものとか、思っていたのだろう。
日本ハンバーグ協会のホームページに、ハンバーグの歴史が書いてあるのを読むと、物語には父が直感したドイツのハンブルグも関係してるようですね。
不二家レストランではハンバーグ(ライス付き)を頼むとナイフとフォークが置かれた。ハンバーグがでてくると、わたしは右手にナイフを、左手にフォークを持ち、最初から食べ終えるまで、その食べ方を維持することに注力していた。少年の頭の中にそれが洋食の食べ方でありマナーであり、それなのに右手にフォークを持ち変えて、ときにはナイフを使わないでフォークでハンバーグをちよちょっと切り分けて食べるなど言語道断!と言う、なんだかカタクナな気持ちがあったのである(いまはそんなことにこだわらずにテキトーに食べちゃってますが)。半ズボンをはいて、坊っちゃんがりの私である。

ある日に撮った写真を時刻に沿って眺める。街角スナップに写すものはある分類に収まってしまい、その種類なんてたいして多くもなく、その種類の少なさに自分で呆れたりする。都会のなかでも限られた条件のなかで自由奔放に広がっていく植物たち、その葉を揺らす風。カバーの被せてある車。捨てられて植物に覆われつつある車。砂浜や公園で広く散らばって遊ぶ人々、ポスターのような街中の画像に、そこに貼られたことによって最初は同じだった複製印刷物が唯一になるように刻まれていく落書きや剥がれや重なりや。三角屋根の工場。昭和40-50年代に流行ったらしい横の線がはっきりとデザインされたようなアメリカっぽい(と私は感じる)一般住宅や医院建築。。。。すると、過去のある日の街角スナップはそのとある一日ゆえの独自性とは裏腹に一方でどこに行っていてもいつも同じで、すなわち私のある一日は、写真でたどっても、被写体側の持つ固有性、街の名前や季節や光の具合や時代の世相を除くと、どれもこれも延々と代わり映えしない無名な繰り返しかもしれない。すると、第三者以上に、撮影者であるわたしが何年も経ったあと鑑賞者としてそう言う写真を見るときには、(第三者以上に)個々の写真の違いが些末になり、どれもこれも言い方を最大乱暴にすれば、結局は全部おんなじ、となりかねないのではないだろうか。ところがそんな中に食べたもの写真が出てくるとサッカーの試合の飲水タイムのように、あるいは泳ぎが下手な人が(私です)25mテストで息継ぎなく(泳ぎが下手な人の多くの理由は息継ぎが出来ない、だろう)泳ぎきってしまったあとの安堵の最初の呼吸のように、ちょっと本来の「懐かしい」感じに見舞われる。食にまつわる記憶って頑丈ってことかもしれないですね。

少年期の記憶

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昨日のブログのつづき。森山大道が記録38号に書いている「写しつづけてきた数多くのイメージのルーツが、少年期に体感した数々の記憶にもとずいている」について、では自分の写真を眺めて、なにか少年期の記憶を甦らされることがあるか?なのだけれど、昨日のブログに載せた鉄道のガード下を自転車が走っている写真、たぶん多くの人はなんでここを撮るの?つまらないし提示される意味がわからない、と無視される写真を見ていると、個人的な少年期の記憶は芋づる式に甦る。森山さんはプロだから、個人的な記憶に基づいて撮った写真をもって、鑑賞者と言う第三者に何らかの揺さぶりを加える「写真の力」をもっているわけだけれど、こちらは、そんな責任も必要もないと言えばない。もちろん写真を撮って皆さんにこうして観て頂く行為には、なにか肯定的な感想をいただきたいと言うような下心があるのは仕方ないけれど。ある私的記憶に基づいてガード下を走る自転車の光景を撮る。それを見せる、そこから上記の「肯定的な感想が欲しい」のあいだをどう埋めると言うのか?これはやはり、鑑賞者の別の(少年少女期の)記憶を揺さぶることが出来るかどうか?と言うことなのか。もしそうだとすると同世代の同性がいちばん揺すぶることが出来る可能性があるのが理屈になるから、森山大道の写真がそこに縛られずに、若い世代にも女性にも日本人以外にも「受ける」と言うことは、昭和20年代日本を見ていた少年期の記憶をベースにしていたとしても、それをどういま撮る写真に焼き直しているのか?そこがまぁ「秘伝のタレ」ってことか。森山大道に限らず、たとえば深瀬昌久もヨーロッパでの評価は高い、のかな?以前、フランスでカメラの修理等の仕事をしている方で、趣味で日本の写真集を集めてる人に会ったことがあるが、その人だけかもしれないが深瀬昌久の名前を盛んに挙げていた(ついで荒木、森山、だった)。

私が小学校の五年生か六年生の頃に、住んでいた神奈川県平塚市は、金目川と言う市内を流れる川の川口から上流まで、川沿いに金目川サイクリングコースなるものを整備公開した。自転車2台が横に並んで走れるくらい、言い換えると対向車を考えると一列で走らなければならないくらいの幅の狭いコンクリートの路で、まぁ、最近はどの川にも標準的にあるような気もする(たとえば相模川湘南ベルマーレが練習してる河川敷のサッカー場あたりにももっと道幅の広い自転車と歩行者用の路がある)。いま、金目川サイクリングコース、で検索したら何件も記事が出てきたから今もあるんだな。これが開通したときの小学校高学年の男の子たちの話題は、早くもそこを走ってきた子供の自慢話に誘導され、とにかく一日でも早く自転車でコースを制覇する、それが「勲章」なのだった。たぶん五人に二人くらいが走ってきた頃には下火になったかもしれない。ちょうどツインライトとかフラッシャーとかバックライトとかセミドロップハンドルとか五段程度のギアチェンジ機構が、あとバックミラーもか、少年用の自転車として流行していて、それまでのまさに子供用のタイヤサイズの補助輪が取れたあとそのまま乗ってきたもはや小さすぎる自転車から、その手の少年用スポーツ車に乗り換える時期と、金目川サイクリングコース開通が同じ頃だったんだと思う。最初に走ってきたメンバーは難所があると言う。地図を描いてどこぞの橋は急角度に右左と角が続くから運転に気を付けないと転倒するらしい。実際に走ってみれば誰でも曲がれるなんてことはない曲がり角なのだが、少年たちは自分の自転車を操縦して進むことに、なんと言うか疑似パイロットのようななりきりをしているから、そこを通過するのは至難の技で、そのミッションを果たすことが誇りとなるのだ。
わたしがそのコースを走ってみたのが、熱があるうちだったか下火になったあとかは覚えてない。そのコースはわたしの小学校の学区内を横切っても接してもなかったから、他学区を越えてコースにはいる最短経路で行きたいものだった。なぜだかコースに入りさえすれば学区間の?学校間の?いちゃもんのない公平な平和地域なのだった。

夏休みのある日に、もう三回目か四回目か、ひとつ下の友達S君と金目川サイクリングを走りに行った。最初に難所とされた曲がり角が続く橋は難所でもなんでもなく、それより上流から下流へと走ってくる場合、東海道線を潜る為にすこし前から道が坂となって下り、線路の下ぎりぎりを潜ると、今度はもう上らずに河川敷の比較的川の流れに近い高さで路は続き川口近くに至る、その下り坂でどれだけブレーキを掛けずに高速で線路の下を通過できるか?が重要なポイントになっていた。S君とそこに来たとき学年がひとつしたのS君はわたしの前を走っていて、彼はまだ買い換えてもらえない小さな自転車を漕いでいたかもしれないな、それでもブレーキを使わないまま坂道を全力でペダルを漕いでますます加速しつつ突っ込んで行ったのだった。ひとつしたに離されるわけにも行かず、慎重派のわたしも同様に高速で坂を下った。ちょうどそこに東海道線の長大な貨物列車が走ってきた。コンテナ貨物ではなくワム5000だったか6000かな、そう言う型式の貨物車をずーっと長く連結していたと思うな。それから貨物列車を引いていた電気機関車も何種類か走っていたけど、黒々と塗られた巨体に黄色い線が引かれたEH10も良く見かけた。そう言う貨物列車が真上を通っている真下1メートルくらいしかないところをS君とわたしは通過した。その時の音の大きさが想像をはるかに越える、もはや恐怖だったのだ。知っていればそんなことはなかったのだろう、一瞬S君のハンドルがぶれたがブレーキを掛けることも転ぶこともなく、ついでわたしも、その恐怖の大音量から抜け出たのだった。するとそこは夏草が繁り入道雲が立ち上がり蝉の声が聞こえる暑い暑い日本の夏で・・・なんてことまでは覚えてない(笑)

以来、昨日のブログに載せた写真の場所や、ほかにも何ヵ所か、思ったよりも頭上のずっと近くに線路の走ってる路を潜るときにはこの日のことを必ず思い出す。この記憶が12才のことだったとすると50年も、ちょうど電車や列車が行き交う瞬間に当たってないよな?と気を付けていてほっとしたりする。あるいはこの際、あの大音量はどれくらいのものだったのだろう?とわざわざ電車が来たときにその下に行ってみたこともあった。しかし、いずれも恐怖を感じるほどでもなかった。通りすぎる車両の重量や速度、回りの音響に関する条件、いろいろなことが絡んでいるので、あれほどの轟音になることは滅多にないことなのか、それとも、想像をしてなかったところに出くわした轟音、と言うことが、あの恐怖の主原因だったのかはわかりようがない。

今日のブログは昨日載せた写真にまつわる個人的な少年期の、昭和40年代の記憶を書いてみました。

 

写真の動機

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都内の某写真集専門書店から定期的にメールで新刊案内や割引情報が届く。店に行ったこともあるが、ウェブページでそれぞれの写真集についての短い解説文を読む方がどういう本かわかりやすい。もちろん、店に行けば、たしか解説のポップが立っている新入荷本もあるから同じようではあるが全冊の解説が読めるわけではないだろう。でも実物の本としての重さや手触り、印刷や紙質、を知るには店に行くに限る。あるいは店内のどこかの棚の片隅で偶然見つけた写真集が気に入るかもしれない。そう言う実物感と偶然の出会いは店に行くしかない。すなわちこれは二者択一なのではなくそれを組み合わすに越したことがないってことだろうな。
それって、むかしむかしに輸入盤レコードを買いに、住んでいた神奈川県平塚市から、(タワレコが日本に出店する前に)渋谷のCiscoとか青山のパイドパイパーハウスに行っていたのと、結局は似てる。通販はなかったけれど(あったのかもしれないけどそれを使おうとは思わなかった)、音楽情報誌のニュー・ミュージック・マガジンとか、なんだろう?ザ・ミュージックってあったかしら?そう言うのに掲載されたロック評論家の新譜評価の記事を読んだり、ジャズであるとスイング・ジャーナルの新譜解説を読み点数を見たりして、そう言う事前調査で買いたい(聴きたい)LPレコードをメモしておいて、さて、数ヵ月に一度、バイトで貯めたお金を持って平塚駅から湘南電車で品川へ、山手線に乗り換えて渋谷へ。Ciscoでは猛然とレコードの入っている、あれはどう言えばいいのかな、上向きラックにレコードが縦に入ってるようなの、それを右手と左手の指で高速に捲りながらジャケットを見て瞬時にそのLPに興味があるかないかを判断していた。そして、例えば5枚のレコードを買ったとすると、店内でのLPとの「初対面」で買ったのが2枚、事前にメモしておいたものが3枚と言う感じだった。いわゆるジャケ写買いも2枚のうちの1枚にはあった。満足するものは3枚の中に多い。がっかりするのは2枚の中に多い。でもとびきり気に入って自分の音楽を聴く(生意気な言い方だけど)幅が広がるきっかけになるのは2枚の方からしか出なかった。この「偶然の」必然の出会いのようなことは過去の嗜好分析からは得られないように思えるが、潜在的にはその嗜好があり、そこまでのAI分析が可能ならば通販サイトのオススメも侮れない。
話が戻り、写真展書店の案内に森山大道のシリーズ写真集の「記録」が二割引とあったので値引きされてる各号の上記の案内文を読んだら、38号だったかな、引用すると
「カメラを手に歳を重ねるにつれて、ぼくは自身が写しつづけてきた数多くのイメージのルーツが、結局昭和20年代の少年期、つまり終戦後の数年間にぼくが見、そして体感した数々の記憶にもとずいていることに気付かされる。  戦後のある時期、国内あちこちの町々を転々とした頃の記憶が、ぼくの意識の底に降り積り、後年、街頭スナップカメラマンとして写すさまざまなイメージのなかへと、つと指先きを伝わって呼応し反映されているような気がする。ようするに、ぼくが撮る写真の大多数には、そのとき写す現場で意識するしないにかかわらず、一瞬タイムトンネルを通してたった現在(いま)と交感し合っていると思えるのだ。」
http://shelf.shop-pro.jp/?pid=159610438
森山大道とわたしは約20歳差なので、わたしがスナップするときの被写体の選定に同様原理が動いているとすると森山さんの昭和20年代はわたしにとっては昭和40年代になる。そしてここに書いてあることはまさしくここ数年、自分自身もものすごくそう言うことを感じていたので、何て言うの?アマチュアカメラマンのわたしですらこの大御所の書いていらっしゃることに、我が意を得たり、と感じた。ただ、わたしの感覚では昭和40年代の子供の目にその時点での新しい古い関係なく、当たり前にそこにあった光景、または光景を構成してる一つ一つのモノは、ここに来て急減してる。そして、それに引きずられて、街角スナップで撮る枚数が減っている。そう考えると昭和20年代とおっしゃる森山さんが令和3年の目の前の全景から昭和20年代に繋がる被写体と言うか場面、かな?を取り出す力は、それがスナップ写真家のプロたる証のエネルギーなのかもしれないけど、すごいものだなと思う。

坂を登る

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 13日に入院して14日にとある手術を受けていまも病室暮らし。今月末には退院出来ると思います。病院にコンデジも持ってきたけれど、木村伊兵衛須田一政植田正治のように写真を撮ったり出来るものかな?と思ったので、入院中のブログ更新のために、入院前に何枚かの写真をスマホに入れてきました。事前に選んだ写真になにか具体的な選択基準があったわけでもなく、すこし古い写真を見直した中から、街角や花を選んでおきました。そんななかにこの階段を歩きながら自転車を押して上がる人の写真を選んでた。
普段はなにか夢を見ていても、見ていた残響と言うか残映がすこしあって、そこにはその夢が喜怒哀楽のどの感じが多かったか(喜怒哀楽と言うよりむしろ焦っていたり迷っていたり不安に思ってる夢が多いかも)が残りつつもすぐに消えていき、ましてや具体的な夢の物語を覚えてることなんか、滅多にない。なのに手術後にいろいろ管が繋がってる不自由な状態でありながら、なんだか最近は起きても夢はよく覚えてるのです。
たとえば・・・
坂道の角度が実際にはあり得ないほど立っていて、もう90度に近い、岩登りのような急角度なのに、それは町中の交差点で赤信号に停められた自家用車のテールランプが赤く灯っているのが見える。その交差点に向かって、自分は岩登りの装備などないまま、それでも足のみだと立っていられないので、四つん這いになって進んでいるのだけれど、坂道の角度はどんどん急になり交差点まで行き着く前にこの道をズズッと落下してしまいそうで、立ち往生している。その目の前のアスファルトに立てている手の爪の先に、アスファルトの割れ目から生えた小さな草、ハコベとかでしょうか、その草が風に揺れてました。
例えばこんな夢を見ました。
この階段を自転車を押しながら登る写真はこの話にぴったりじゃないか(笑)
今日は風が強い。ゴオゴオもヒュウヒュウもピューも聞こえる。この病院はたぶん築20年か30年か、古い建築って訳でもない。風の音をうまく聴かせるように、設計するときにそこに気を配った建築ってあるのだろうか。わたしはゴオゴオもヒュウヒュウもピューも、風の音は嫌いではない。何でなんだろう。なにかが動いてるとか進んでるとか、そう言う前向きなことを感じるのだろうか。決して穏やかとか優しい、と言う天候ではないけれども。小学生の頃、校庭をすこし高い位置から見渡せる給食室と第二校舎のあいだの渡り廊下から、強風の日に校庭の砂が一斉に舞い上がり、やがてすこし埃っぽい匂いがするときが好きだったな。あるいは雨が降り始めて埃っぽい匂いが立つときも好きだった。
と、ここまで書いたら、ちょっと聴いてみたくなり、はっぴぃえんどの風を集めてを聴いてみた。スマホは便利だね。