些細な違和感

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写真は二週間くらい前のものです。

天気予報が週末から日本列島は数年に一度の寒気に覆われ、ものすごく寒くなるでしょう、と盛んに伝えている、今日の金曜日はクリスマス・イブ。近隣のローソンに立ち寄ったら、いつもはサラダなどが置いてある棚がケーキの箱に占領されていて、ほとんどサラダが見当たらない。ところでコンビニと言えば、このまえ朝の通勤時に聴いていたNHK第一のラジオ放送で、朝からちゃんとたんぱく質を食べましょう、という話を聴いたので、それまで買ったことがなかったゆで卵を、ときどきコンビニで買うようになり、そういう日には、朝のおにぎりやサンドイッチと、あるいはバナナと、一緒にゆで卵を食べてます。ところで、コンビニで買ったものを食卓ではなく、会社の自席や家の自室のPCテーブルでちゃちゃっと食べるときに、当たり前ですがこのゆで卵の皮を剥くために最初に殻にひびを入れる。そのためにはもちろんゆで卵をどこかにぶつける。このぶつけるべき場所というのはどこであるべきなのかがわからない。もちろんほかにはしかるべき角はないから、会社なら自席の机の天板(て言うのか?)の角に、自室ではPCが置いてある小さな机のそこにぶつけるしかないから、当然そうしているのだが、でもそのたびに、本当はここではないもっと的確で正しい、ゆで卵をぶつける場所があるように思えるのだった。こういうふうに自席や自室で食べるということ、食卓ではないところで間に合わせで食べること、ってむかし(四十年五十年前)にはあまりなくて、皆ちゃんと食べる専用の場所に集まって食べていた確率がいまより高かったかもしれないが、かといって、食卓でみなが集まって食べていた時代にはゆで卵を最初にぶつけてひびを入れるための相応しいぶつけ場所があったっけ?と思い出そうとしてみると、結局むかしだって決まっていたわけではなかっただろうと思う。あるいは殻付きのゆで卵を食卓で剥くことは少なくて、多くは台所で料理をされる段階でその行為は行われていたのか。そして主婦はシンクの角ではなくて、まな板の角にぶつけるのを常としていた・・・かしら?さて、むかしのことはよく覚えていないけれど、ここにこれから私はゆで卵をぶつけるけれど、本当はそれは行儀が悪いことであって、本当なら×××がぶつける場所なのだ・・・といった思いが起きる。でも×××がどこなのかは不明な感じがする。でもきっとそうすべき打ち付ける場所が特定されていることなんかないんだろう。適当にその辺でどこかあるでしょ!てなもんなんだろうな。

ま、些細な違和感でございます。

ゆで卵 ぶつける場所を迷う君 加湿器のミスト 揺るぎない冬至

銀座を歩いた日

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昨日は南関東も一日雨が降っていた。今日の南関東は晴れているが、山間部や日本海側は大雪が降っているそうだ。寒気も来ているらしくとても寒い土曜日。そして陽射しが作るコントラストがとても強い澄んだ空気の日。銀座の歩行者天国を撮りながら歩く。50年くらいまえに父が腕時計を買いに銀座に行くというので付いて行ったとき、まだ歩行者天国などははじまっていなかっただろう。銀座の町の風景の記憶はなくて、鉄道模型の店に、時計屋のあとに寄った気がする。40年くらいまえには200キロほど西の町から東京に来た友人を連れて銀座に来て、どこになにの店があるかも知らないのに、喫茶店など銀座であればどこにでもたくさん見つかるものだろうとたかをくくって歩いたが、なかなか喫茶店が見つからないまま新橋まで歩いてしまった。30年前にはプラスXフイルムを入れたその当時ですでに古いカメラだったレンジファインダーカメラを首から下げて、真夏の銀座の歩行者天国で何本もスナップをして、そのときの写真をキャビネ版にプリントしてスケッチブックに貼った自作の写真集を一冊作った。タイトルは「銀座エトセトラ」。50年前、40年前、30年前、20年前、10年前、銀座は様変わりしていて、一方でなにも変わっていない。なにも変わっていない、一方で様変わりしている。時間の流れがあっと言う間と感じることと、ずいぶんゆっくりだと感じることが、表裏一体で実はおんなじなんじゃないかと思うことがある。銀座の変わった変わらないの感じ方も実は表裏一体でおんなじことなんだろう。

平凡という単語の反対語ってなんだろう?奇抜とか数奇とか波乱万丈なんて単語が浮かんだあとで調べたら卓越だった。なんで平凡て単語が浮かんだのかはもう忘れてしまった。むかし「明星」と「平凡」って雑誌があったっけ?「平凡パンチ」は「週刊プレイボーイ」とともに青少年の頃にはよく買っていた。でもなんでこれらの雑誌には平凡って単語が使われたのか。その雑誌に書かれている記事から得る情報とか、グラビアに掲載されたアイドルや女優のことを知っていることが、そのときの青少年にとって「平凡」な(言い換えると流行であるがゆえに誰でも知っているべき)ことだという宣言だったのか?雑誌の平凡も平凡パンチも廃刊となった。世の中、卓越目指した競争ばかり。いや、いつもそうだったのか。

最近は明星、宵の明星が美しい。

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思うこと

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1:過去のいつか、冬で、曇りで、日曜で、あっという間にもう午後で、それでなにか食べるために、殺風景な町に出て、歩いて行ける範囲の「行きつけと言うほどでもないけれどたまに行く」中華料理屋に、平日の通勤通学のときよりはずっと遅い速度で歩いて行き、ガラガラとドアを開けて、空席を見つけて、その店に行くとだいたいこれを頼むことにしているというマイ「定番」メニューを頼む(大学の頃だったとすると、私の定番は「天津丼と餃子」だった)。注文してから料理が出てくるまでのあいだ、調理の油のせいでなんとなくヌルヌルした感じの漫画雑誌を手に取り、例えば松本零士の連載を読むと、そこには切れ長の目の髪の長いヒロインが哀しそうに震えている。店の少し高いところにあるテレビ台に置かれている小さなテレビには休日の午後の番組が映っている。のど自慢だったり、新婚さんののろけ話だったり、分野ごとに簡単な問題から難しい問題までがマトリックスになって並べられているクイズ番組だったり。まだ昼飯だというのに食べ終わって、ちょっと本屋にでも寄ってから外に出ると、もう夕方の気配が漂い、なんだかあっという間に一日が終わる感じがするものだ。たいていのそんな日曜日は、ひとりきりだから、中華の店で「天津丼と餃子をください」と言った以外にはひとことも話していないのだったが、たまには友だちと一緒のこともあっただろうか。そういう日ならもちろんぼそぼそと話はしたけれど、たいていは目下の問題、テストの準備とか実験の課題とか出席日数の懸念とか。あるいは話題の小説や映画のことで、そんなのは「しょせんちっぽけな、それまでのこと」で忘れてしまってもかまわない。

2:先日、電車に乗っていたら有名進学校の高校生男子二人が話しているのが聞こえてきた。ひとりは将来自分がなにをやるべきかを悩んでいて、起業とかベンチャーといった単語が出ているが、夢あふれるというより戸惑って悩んでいる。もう一人はそんなことに興味がなさそうでゲームをしながら聞き流していたな。

 

撮ったときにはそんなことはいちいち思いもしない。だけど、この写真を撮って数日後に自分でPCモニター上で眺めているうちに、1と2のようなことを思い出したのだった。

SOMEDAY

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京浜急行の、八丁畷、鶴見市場、京急鶴見花月総持寺、のあたりの国道15号線とそれと平行に進むように、でも国道ではなく住宅街や旧東海道を歩いてみる。途中で暑くなり、ダウンジャンパーを脱ぎ、セーターも脱いだ。昨日のブログに載せた横浜美術館あたりの新しい横浜と、野毛や伊勢佐木町のような古い横浜と、同じ横浜市とは言え京浜工業団地を近くに控えたこの鶴見や生麦の町は、当たり前のことだけれど、町の「相」というか「柄」がぜんぜん違う。この、なんというのでしょうか、殺風景な感じが悪くないと感じる。人柄でいえば、一見こわもてでとっつきにくそうで、無口で、だけど実は気配りのある定食屋のおっさん???のような町ってことで。

二回前のブログに載せた紅葉の写真も、一回前のブログに載せた横浜の写真も、この鶴見あたりの写真も、私が撮っている(当たり前ですね)。たぶん私は被写体によって撮り口を変えていないし、それぞれの光景を前にしてあれこれカメラの設定を工夫なんかほとんどしない(自分にとっての適正露出が+2/3段くらいなのでそうしている)。画面は99.9%横のまま。しゃがんだり寝転がったりしないで、ほぼ立ったままの顔の位置でカメラを構える。撮影後の画像処理でトーンカーブを少し上向き凸にして明るくする。明るくするときに空の色が白に消えて行くのが嫌なときはレイヤー機能で空だけは明るくならないようにする。使っているのはずいぶん古いフォトショップ

さて、それではこれらの写真に共通の「わたしらしさ」ってあるのだろうか?あるいはここに書いたように町の「相」や「柄」が支配的で、それにより写真は同じ私が撮ったものなのに、そんなことは些末な共通項で、まったく違って見えるのか?

そういうことって撮った本人はまったくわからない。

タイトルのSOMEDAYですけどね、今日風呂に浸かりながらなんとなく口ずさんでいた曲。佐野元春の曲です。

 

「手おくれ」と言われても

口笛で答えていた あの頃

誰にも従わず

傷の手当てもせず ただ

時の流れに身をゆだねて

 

何度もそこばっかり歌っているうち、湯が冷めてきたので、おいだきボタンを押す。

 

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横浜

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横浜美術館は改装中。美術館前の霧状の水が噴き出る広場では子供たちが走り回っていました。暖かい日。ロックバンド、ザ・スミスが解散した1987年の日(正確には解散の翌日?)のアメリカはデンバーの町のスミス大好き青少年・少女(少数派)の一日を描いた青春映画「ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド」を見る。収容人数55人の小さな劇場に客は5人だった。1980年代後半、ザ・スミスの音楽をリアルタイムではまったく聴かなかったな。その頃はJPOPが歌謡曲から全く違う作風に変わりつつあって面白かったのと、フュージョンというジャズの分野が大流行していて、洋楽のロックバンドをリアルタイムで追っかけたりすることはしなくなっていた・・・んじゃないだろうか。でももし当時、意識的にザ・スミスを聴いていたとしても、そんなに好きにはならなかった気がする。それまでのロック(映画ではそれまでのロックがスミスファンからは対抗軸に置かれた低俗で「われらの音楽」ではないという位置づけだったかも)よりなんだか湿っぽくて、すなわち歌謡曲→JPOPという流れの反対向きな感じのウェットな感じ・・・というそういう印象も、最近になってザ・スミスを聴いて思ったことだから、当時の自分にそれがどう聴こえたかはまったく不明ですね。ま、私は土臭いカントリーっぽいロックや、西海岸のSSWという人たちの軽く乾いた音楽が好きだったから、なにを聴こうがその分類に属さないものは「湿っぽく」聴こえるのかもしれない。

入れ込んでいたロックバンドの曲、その曲が人生のすべてで自分の代弁者で、それがあるがゆえに日々を生きていける・・・そんな風にある年齢において音楽に身を委ねるような気分になるのも、若者の良くも悪くも「らしさ」だろう。だから映画で起きるちょっとだけ警察沙汰になる感じの事件(実際には被害者相当の男が加害者と意気投合してしまうが)を共感を持って受け入れることが出来るのは、そういう気分を知っている(つもり)だからだろうか。

若者たちが明日への不安を感じながらも、一夜、乱痴気騒ぎのパーティを催す。その場面を見ていると、もう何十年も観ていないけれど「アメリカン・グラフィティ」って映画を思い出した。上記「事件」を起こすレコードやの店員が、冷静で聡明な感じで良かったです。彼の役どころの性格設定なんかが、すなわちザ・スミスなんだろう。

それから夕暮れに向かう横浜の町を、伊勢佐木町や野毛という昭和な感じの町を、気の向くままに歩いた。雑踏の中にいて、だから安心な私はひとりぼっちで、そのひとりぼっちの寂しさを噛みしめる感じは、結局、いつまでもこういう町の中に居続けたいと思わせるのだった。

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もう散る寸前

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楓が赤く色づいていた。逆光で見上げると葉は赤く光ってきれいに見える。順光の方から見ると葉はその先端部がすでに乾燥して薄茶色に色が変わっている。赤も順光側からだと真紅というより臙脂色に見える。もう数日すれば葉はすべて散るのだろう。

葉を落とすと陽射しは地面に届き、冬の木の下は明るい。南関東の冬は乾燥していて放っておくと乾燥肌であちこち痒くなるし、唇もがさがさとなる。

小学校の4年生か5年生のときに、クリスマスプレゼントとして両親から(サンタクロースから?)トランシーバーを買ってもらった。25日は日曜日で、朝から早速そのトランシーバーで交信を試してみる。相手を父にしてもらったのか、誰か友達を呼んだのか、わからない。その交信が混線した。そして混線して聞こえた声が、近所の友達のI君とS君のものだった。あとで確認すると、クリスマスプレゼントに私だけではなくI君もS君もトランシーバーを買ってもらったのだった。ではそれだけトランシーバーに人気が集まる何か理由があったのか?子供に人気のテレビドラマに使わるとか?いや、そんなこともなかった気がする。ただトランシーバーというものが少年にとって「かっこいい」のだったのだろう。

この思い出話なんてものは、このブログにも以前に書いたかもしれない。何十年も生きて来ても思い出話がたくさん溜まってるわけでもない。たいした数ではないだろう。

別に敵対する少年グループがあったわけではないけれど、I君やS君や私の「仲間」のグループは仮想の敵対グループのために、暗号を考えようとしたり、秘密基地を作ろうとした。トランシーバーで話すことはそれほど流行らなかった。やはり少年のあいだでは「狼煙」とか、ペコペコ音を立てるドラム缶の蓋のペコペコをどう鳴らすかで暗号にしたり、そういう(いまでいう)アナログチックな手段の方が秘密めいていた。

冬の乾燥した明るい(でも寒い)日についてはこのトランシーバーの話が思い出される。

明るいけれど、特に午後の時間はとても短く、すぐに夕方と夜がやってきてしまう。だから・・・

コーヒー

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横浜駅から桜木町まで歩く。遊歩道に面したTSUTAYA書店の窓際はスターバックスのカウンター席になっていて日曜の午前の時間、コーヒーやその他の美味しい飲み物を飲みながら読書をしたり勉強をしたり、その他、それぞれの時間を過ごしている。

下の写真はminato coffeeというコーヒースタンド。先日茅ケ崎のコーヒースタンドで店主と常連客の方が、この店のことを話していた。小さなスペースに次々と客が入っていく。その向こうはランドマークプラザからみなとみらいへと続く遊歩道で師走の買い物をする人が行き交う。皆さんマスクはきっちりとしていらっしゃる。人出はずいぶん多いと感じるが、コロナ前にどうだったのかはわからないけど、そこまでは戻ってないのかな。

こんな風に日曜の午前にコーヒーを飲んで過ごすことは、以前だって喫茶店に行き新聞読みながらモーニングセットを飲むことで、同様に過ごすことも出来た。以前というのは昭和50年代くらいをイメージしてます(笑)

だけど「コーヒーを飲む」ということはおんなじでも、やっぱりどこか違う。普及度が違うのか、コーヒーへの期待度とそれにこたえる多様性が変わったのか、そこで過ごすことの多様性が広がったのか、あるいは、コーヒーを飲む世代または人口が拡大したのか。

そんなことを考えているうちに、昭和50年代から今までのあいだに、例えばファミレスが増える、携帯電話が普及する・・・等々、人の生活の標準がずいぶん変化したが、その変化を同時代で越してきたからあまり驚かずにいつのまにか新標準で暮らしているな、と思い至る。でも・・・コンビニっていつから暮らしの中で標準的になったのか?そこのところにわたしの場合、明らかな記憶がないのです。1990年代の中ごろからいつのまにかそれがそこここに現れて来ていて、気づかぬうちに頻繁に使うようになっただろうか?

はじめて黒電話が家にひかれた日、はじめてティッシュペーパーが家に置かれた日・・・さらに時代が進み、はじめてファミリーレストランデニーズに行った日・・・などは覚えているけれど。はてさてコンビニはいつ初めてお世話になったのだろう?

今日は晴れ予報だけれど、晴れとはいえ、曇りの時間が多い12月の寒い日だった。その12月の寒い薄曇りの日が、それはそれでこの季節らしく好ましい。

あ、それで、わたしは、コーヒー好きです。

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