写真への反応 、 色づく意味 


 下の写真は、今日、新宿御苑でほかの多くのカメラマン同様に、上を見上げて逆光の楓を撮ったもの。下のような写真はたくさん撮られていて、私みたいに適当に撮るのではなく、三脚も立てて、じっくりと構図を考えて、露出なんかもいじって、前ぼけとかも入れて、被写界深度もコントロールして、もっと望遠にしてみたり広角にしてみたりもして、結果としてもっとずっと、(従来確立している基準で計れば)クオリティの高いきれいな写真を作る人、そういうレベルのアマチュアカメラマンはたくさんいる。別に写真に撮らなくても、目で見てきれいだと感心して、あー見てよかったと思う・・・それが価値であって、一生懸命写真を撮って、残して、だからどうだというんだろうか。その写真の持つ意味は、こんなとこに行きました、と誰かに伝えるためなのかなあ。言葉で伝えるより写真を見せたほうが視覚に限定すれば多分ずっと上手く伝わるから。自分だって写真を撮っていながら、こうして帰宅してからなんだか写真を撮る行為の「意味のなさ」みたいなことを考えてしまう。
 上の写真は昨晩、車の助手席に乗っていて、行き過ぎる街路樹の銀杏をシャッター速度1秒で流し撮りしたもの。こんな写真を撮る人は滅多にいないだろうな。しかもこんな写真をいいとおもう人は「変わっている」のだろう。
 しかしこうしてあらためて並べてみて、自分の写真の鑑賞者に自分がちゃんとなれているのかどうか判らないけれど、あえて偉そうに書いてしまうと、上の写真からはなんだか不安感みたいなざわざわした感じが伝わり、下の写真は「きれいだね」で終わりだと思うのだ。写真から得た不安感から不安の記憶が呼び覚まされて、七歳のころの晩秋に一人で留守番をしていたらどんどん日が暮れてしまい、それでも母が買い物から帰ってこず、いたたまれなくなって近所のおばさんのところに駆け込んだことがあったことなどを数年振りに思い出したりした。
 写真への反応とはそういうことではないのか。 


 昨日も今日も色づく木々を眺めて、昨日のブログに書いたとおり、なんで木々は紅葉するのか?その意味は何なのか?と知りたくなったので、今朝まだふとんから抜け出さぬままに携帯電話を使って「紅葉 ウィキペディア」と入れて調べてみた。そうしたら「何故紅葉するのかは解明されていない」みたいなことが書いてあって驚いた。
 私はてっきり、その色に反応する昆虫とか鳥がいて、植物は色で呼び寄せた昆虫や鳥によってなんらかの必要なことをしてもらう、といったような「色づく意味」があるのだろうと予測していたのだが・・・

 今日、電車のなかで読んでいたのは「ムーミン谷の彗星」。スニフの台詞を読むと、アニメのムーミンに出てくるスニフの声とイントネーションに脳の中で変換されておかしい。