校庭 または 写真について


 最近は電車やバスに乗っているときにiPODを聞くこともなくなっていたが、今日は何気なくというのか気紛れにというのか、聴いてみる。何気なくとか気紛れにとかいうのも都合のいい言葉であって、本当はそうするきっかけがあるのかもしれない。それを忘れてしまったか、意識できない何かが原因なのか、いずれ判らないからそんな風に書いてしまう。
 いや、こんな方向にこの文章を書いていくつもりではなかった。ただ久しぶりにiPODを聴きつつ「ムーミン谷の彗星」を読んだり、車窓風景の写真を撮ったりした、と書きたかったのだ。あるいは眠ってしまったり。
 そういう合間にも写真のことを考えている。写真の一番わかりやすい機能は「視覚の代行」で、それは文章で光景をあらわすという不明瞭な行為を超える正確な伝達を可能にしていて、だから広い意味の報道としての役割が理解しやすい。安易だが良く使われる区別らしい写真を「窓」「鏡」かで分類するとすると「窓」としての機能。だから「具体的に何が写っているか?」が重要でそういう役目の写真を見ることは安心できるだろう。そしてその伝達に際して、論文にテクニック(構文のパターン)があるように、即ち伝えるためのテクニックは文章のみならずどこにでもあるように、写真にも「窓」の役目を最大に発揮するためのテクニック、作法があるだろう。それが黄金比構図とか前ボケとか、人物をきれいに撮るには深度を浅くして目にピントを合わせて下から見上げるようにすると寸詰まりになるから注意してアイキャッチの光が入るように工夫して、とか、風景を真っ昼間に撮ってもいい写真にはならなくてだから早起きは三文の得とか、いう定番の「お決まり」が出てくるのか。そういうお決まりのあるものにはお教室が生まれる。あるいはテクニック解説本が編まれる。写真をそういう習い事だと仮定するとこれはそんなに難しいものではないなあ。お茶とかに比べて、すぐにそれなりになれそうだ。それなりの写真が撮れてもうほらアマチュアカメラマンとしてお上手な気分になれる。まったくもって自分もずーっとそうして勝手にいい気なものだったのではないか。そういうお作法にのっとった写真は誰もが評価し易いしわかりやすいし、褒めてもらえるし、でも結局は誰もが撮っていて「無名性」に富んだ写真だろう。
 佐内さんのような写真を撮りたい、川内さんのような写真を撮りたい、森山さんのような写真を撮りたい、とか思うときに、その人から見て佐内写真や川内写真や森山写真は、佐内や川内や森山といった個人の「らしさ」を感じ取れていて、その個の特徴に惹かれてそう思うわけだが、よく考えると「のような写真」は無名性の始まりだ。でもそれでいいんだろう。何故なら結局は個々人に違いがあり、同じ写真は撮れない。
 と、ここまで考えると矛盾?が生じてくる。では結局は個々人の「差」が詰まらないのなら「無名性」とか言っていながら完全に無名的な写真というものは存在しないことになる。「窓」の写真を撮っていても、「鏡」成分が入ってくる。じゃあお作法通り撮ることはいいことなのか?それは石膏デッサンのようなもので、その先には逆に無名性を押し出そうとしてもできない個の表現があるということなのか?しかし日光にあるカメラマンの樹の撮影ポイントでずらりと三脚を並べた十人のカメラマンがいたとして彼等がほぼ同じ瞬間に撮る写真にそういう「差」があるのか?また彼等はその「差」を望んでいるのか?
 (等々例えばそんなことを・・・続きはまた書きます)
 こんな鹿爪らしいことばかりを延々と書いていたらこのブログ、誰も読まなくなってしまいそうだ。
 あ、校庭の写真は東北新幹線の車窓から流し撮りしたもの。