季節を感じる


 写真は茅ヶ崎の香川にある熊澤酒造・湘南地ビールレストランの中庭にどかんと一本ある多分メタセコイアの樹。夕方、上半分に西日があたり、下半分は建物に遮られて西日が届いていなかった。

 昼、平塚のレストラン「ソクラ」にて牡蠣のカレーを食べる。毎年、晩秋になるとレストラン「ソクラ」の牡蠣のカレーが始まり、それを食べると年の暮れが近いと感じる・・・というのは間違いで、それを食べることや、他にも年賀葉書やカレンダーを買うとか、晴れた土曜日に雪を被った富士山を見るとか、会社が終わった時間に既に空が暗いとか、そのほかにも身体が感じる温度、例えば家の中を歩いているときに足の裏が感じている温度とか、居間から廊下を通って北側にある洋室に入ったときの温度差とか、そういうことがたくさん積み重なって年末であることを感じている。牡蠣のカレーを食べるのは、認識し易いエピソードであるから、もはや季節を感じたあとに意識してそれをすることでさらに自分にとってのこの季節を強化しているということなのだろう。夜、自転車に乗っていて東の空にオリオン座の星の並びを見極めると、やはり年の暮れを感じるが、オリオン座は見ようと思って見ているのではなくて、見上げたらあって、それで驚くというのか意識が高揚して季節を感じる。だから牡蠣のカレーを食べに行くということと、不意にオリオン座に最初に気付くということは同じようでいて違う。ところが、今年は最初に季節を意識していたうえで、ということはそろそろオリオン座が見えるぞ、と思い至り、用意周到に空を見上げたらちゃんとオリオン座があった。そういう風にして見たこの冬はじめてのオリオン座経験は、不意に気付いた年と比べると高揚が少なかった。
 とかなんとか・・・いちいち考えている訳ではなくて、こうしてブログを書きはじめると、こんな風に分析が始まる。ということは何かを書くということは、良いことなのか悪いことなのか判らないが、何も書かないというときとは違うのだろう、な。

 牡蠣のカレーは一口目に食べたときに牡蠣の香りが広がって、二口目以降より一口目が一番その香りがくっきりとわかって美味しい。しかし今日はその一口目に真剣さがなかったということなのか、例年に比べると安易な言い方ではあるが「感動」がなかった。というわけで、でも相変わらず毎日のように牡蠣を食べている。昨晩は「鉄のTくんOくん」と忘年会で東京駅近くの中華料理屋へ行き、かきと黒豆のいためを食べたし。

 午後3時ころ、茅ヶ崎里山公園を歩く。紅葉の名所っていうわけでもないのだろうが、中にはきれいに色づいた樹がありました。しかし、なんで樹は葉を落とす前にこういう派手な色に変わるのだろうか?きっと目的があるのだろうな。