せつなさの理由


 会社帰りに銀座に寄り今日から始まった森山大道写真展「光と影」を見る。そのまま歩いて京橋で須田一政写真展「NUDE」も見る。今日は肌寒い。風も吹いている。ジャケットの前ボタンと律儀に留めて歩く。「光と影」、森山大道が写真とは何かを考えすぎた末に陥った「写真が撮れない」時期から戻ってくるきかっけとなった写真時代の新連載「光と影」の作品をあらためて展示している。そのきっかけとしてよく取り上げられている芍薬や帽子の写真も展示されている。スプライトの空き瓶の写真は、白黒写真なのに、その色を渇望させられ、すごく気になる。かぼちゃの写真を見ていて、これらの写真を撮る写真家の視線の素直さみたいなことを感じる。いろんなことを思索したあとにぐるりと回って、意識として理解できている素直さ、複雑な単純みたいなことか。
(ところでいまテレビにガッキーが映っているのだが、この娘、ホント素敵だな)
 で、話は戻って、須田一政「NUDE」、小さな写真展。最初の壁の連続で撮ったと思われる4枚を見ていると、写真家とモデルのあいだの関係が、当然だけど時間のなかに流れたことがあらためて確認される。そしてそのことで、その流れた時間にあった空気が再現されたように、ギャラリーに満ちている。

 帰宅後、お気に入りに入っている皆さんのブログを順番に読んでいく。frannyさんのブログには畠山美由紀の「若葉の頃や」PVのYOU TUBEがリンクされている。frannyさんは「最高にせつない」と書いていて、聞いてみたらたしかに「せつない」と感じる。でもどうして「せつない」と感じるのか?メロディ、テンポ、コード進行、声、ベースライン、ハーモニカの音、歌詞・・・様々な要因がからまって聞くものの心に「せつなさ」を呼ぶのだろう。でもそれ以上の理由が分析できないのが悔しい。
 同じような曲調が「せつなさ」を呼ぶわけではないんだよな。だから余計やっかい。
例えばこんな曲にも「せつなさ」を感じます。
桑名正博 夜の海
安田南 愛情砂漠
ちと古い、いや、かなり古い。これは「昭和」の「せつなさ」だね。
 新しいビルの中に、こんなちょっと古そうなビルがあって、そこから明かりが漏れているのも、ちょっとせつない・・・かしら。