暖かい日曜日


 午後2時ころ、新宿御苑。saturday in the park ってシカゴの曲、私が中学生のころに流行っていたな。今日はsundayだけど。その曲がどういう内容の詩か、知らないけれど、こういう光景を見ると、いつも頭の中でそのメロディが流れ出す。
 詩といえば十日ほどまえの朝日新聞の夕刊に谷川俊太郎氏へのインタビュー記事が載っていた。「『詩』には二つの意味があって、一つは作品そのもの、もう一つはポエジー、詩情をさす」とおっしゃっており、そのうち「詩情」について「初めて詩情を感じたのは、小学校の四年か五年くらいのころに隣家のニセアカシアの木に朝日がさしているのを見た時です」と具体的経験を述べていらっしゃった。
 友人の林林さんはニセアカシアに思いいれが強いので、この記事を読んだときに、林林さんにお伝えしようと思ったのだが、結局はお伝え出来ずにいる。

 十一月の写真展で展示した作品のことを考えている。何を考えているのかというと、自分の撮る写真とはどういうものなのか?ということで、自分の意識・・・というか、自覚?・・・いや、希望に沿った自覚、なのだろうな、そういうことが何かというと、決定的瞬間と称する劇的な光景ではなく、日常の、そこらへんの、ありきたりの、どってことはない、光景を撮りたいと思っていて、そういう写真を展示したような気になっていたのだが、あらためて思うと、そうではないのではないか。そこいらのどってことない光景ではなくて、偶然のブレやアレのもたらした効果やらも含めて、一枚一枚の展示した写真は、結局のところ「決定的瞬間と称する劇的さ」を「天邪鬼」に、あるいは「偏屈」に発展させた尺度で選択したものだったと思えるのだ。私の写真は「カモフラージュさせられ、ストレートではない、偏屈な「決定的瞬間」」を良しとしているのではないだろうか?
 そういうのが、実はコンポラやニューカラー派を含めた写真の流れで、私はそれに感化されて撮り選んでいて、でもそういうことなのか!と今やっと気付いた、そんな気がするのだ。

 今日は、新宿御苑のあとに、池袋の立教大学のツリーも見てきました。

 12/2-5は台湾に出張していた。仕事で海外に行くと、移動中のタクシーの窓からぐらいしか写真を撮る時間がなく(今回は朝も早くて、仕事の前に散歩するなんて時間もなくて)、ここに挙げるような写真は一枚もなかった。
 出張中の移動時間などに「78」読了、続いて吉田修一著「悪人」読了。帰りの飛行機で映画「南極料理人」を見たのだが、なんと!残り十分くらいのところで成田に着いてしまった。帰宅してからちょっと調べたら、なんかラストに感動の場面があるらしくて、見たくて仕方ない。来週あたり新百合ヶ丘の映画館でやっているようなので見に行こうか・・・と思っている。