車窓


 ときどき、車窓を通過する(本当は電車が場所を通過する)果樹園に白い花が咲いているのが見える。梨の花だろうか。
 港千尋著「愛の小さな歴史」をここ一週間くらい、読んでいた。最近は、読書時間が少ない。仕事で移動中のバスや電車の中にいても、熱心に本を読み続けていない。そうなってしまっているのは、ひとつはやはりスマホのせいだろうな。本を読んでいる、読んでいるとそこに書いてあることや、書いてあることと直接は関係ないように思えるので自分のなかではなにかずるずると連鎖が起きていてなにかが思い浮かぶ、そういう書いてあることや思い浮かんでいることをちょっと調べてみたくなる。そうやって一度スマホを見始めると、やれ香川や本田のプレイに現地のサッカー記者はどう評価したか、だとか、やれ優子さんがヘビロテのセンターに誰を後継指名しただとか、やれR研のOさんの会見に関するみんながどう思ったかのアンケート結果がどうなっているかだとか、ここにこうして書いてみると、どうやら、どれ一つとして検索すべきだったというようなことではないんじゃないか。
 いや、世の中には雑学王とか世間話がコミュニケーションの元になっているという必要性ももちろんあるだろうし、これをムダとは言わないけどなあ、でもムダみたいなもんだ。
 なんて書き始めると、じゃあ、なにがムダかなにがムダでないかも判らなくなってきてしまう。しまいには生きている意味って何?なんてことまで発展しかねなくてやれやれで。
 そんなわけで読書時間が少ないが、その本を読み終えた。その前に読んだ、クンデラ著「笑いと忘却の書」に過去と記憶と写真をキーワードにした話が出てきて、このブログに一部引用したことがあったが、こういうのは自分が本を選ぶときに今の自分の知りたいこととか興味があることが反映した結果なんだけど、そういう選択基準を意識的に持っていなかったように自分では思うので、まるで偶然のように感じてしまうのだが、同じような視点の考察が書かれているようなところがあって驚いたりする。

 以下、抜粋。
『わたしたちの人生は、そのほとんどの部分がささやかなこと、ささいなことでできている。誰もそれを撮ろうとは思わないし、そしてここが重要な点ではあるが、もし仮にそれを撮ろうとするならば、その重大さをその場で判断した場合だけである。ささいなことというのは、重要ではないのだから、予定に書き込まれるようなことではなく、したがって、あらかじめ知ることのできないことなのだ。だから撮られなくても一向に構わないのであるが、ときとして、物理的な像として残されなかったということそのことが、特別な意味を持つようになる。』(P111)

 ささいなことか重要なことか、そもそもそれがそのときその場で決定されていっていないし、後日に反転するかもしれないし、反転の前提が一旦評価が定まっているということでそれがおかしいというのなら、ささいなことか重要なことかという区分けの尺度でものごとを考えること自体がおかしいんじゃないか。とかなんとか、いろいろと思うけれど、こういう文章のところにくるとしばしスマホへの浮気が止まったりするのだった。

 この本は1959年作の日仏合作映画「ヒロシマモナムール」(邦題;24時間の情事)の主演女優が残したネガフイルムが見つかったことが話の発端になり、この映画がどう作られていったかを明かしたり考察したりしながら、映像とか記憶とか時間とかの話が引用を多用して展開するのだが、途中で私は読むのが面白くなくなって流し読みしてしまったところもあった。
 それでも映画が見たくなり、帰りにその映画を借りて帰ったので、映画を見てからまた読み返すとまたなにか収穫があるかもしれない。



 電車の窓が汚れていると車窓写真はみんなソフトフォーカスのようになってしまう。この桜はこのブログの一週間くらい前のところに載せたのと同じ桜だと思う。白からピンクを帯びて、もう花の大半を散らしてガクの赤が表れて一層赤みを帯びたのだろうか。どんどん風景が飛んでいくから、もちろんそんな想像を確認には行けない。

二十四時間の情事 [DVD]

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愛の小さな歴史

愛の小さな歴史