本牧あたりをぶらつく


もうすぐ梅雨に入るだろうか。あと十日か二週間もすれば。
連日の快晴に、今のうち今のうちと気が急くようなせせこましい気分もあるのだろう、もう十数年使い続けている須田帆布のトートバッグにカメラと文庫本を入れて家を出る。出たところでどこに行くと言うのか。
先週末に三本借りて二本を観て、一本は観きれなかったDVDをTSUTAYA返却ポストに投函する。ちょうどポストの向こうで、投函された返却品を店員が回収しているときで、投函口越しに顔が見えない相手に手渡しをした。
先週観たのは「読書する女」「フォローミー」。後者は1970年代の映画で、その後にウディ・アレンと公私ともに深い関係となるミア・ファーロウが、がんじ搦めの社交界で生きる弁護士だかの夫に、love&peaceの時代の物の見方を教えて行くと言ったような他愛のない話だった。そのストーリーとは全然関係のないようなことなのだが、あの頃の、70年代の流行歌はAA'BA(Bがサビ)と言う音楽の授業で習う形式にほぼ忠実だったが、最近の流行歌はもっと複雑だよなあ、などというデータとして確認したわけではないがそんな風に感じていることを思い出した。でもいま頭のなかで考えるに「戦争を知らない子供たち」はそんな単純な形式だが、次に浮かんだ「あの素晴らしい愛をもう一度」はもうちょっと複雑なのか。
観きれなかったのは「いとしのタチアナ」。また今度借りようか。一度借りたけれど観なかった映画はなんか縁がなかったような、こんなのは極めて私的な小さな、言ってしまえば子供じみた思い込みなのだが、そんな風に感じてもう一度借りることに躊躇が起きる。しかしこの映画は是非とも観たいから、また借りたい。
そもそも借りたのに観ないのは当然無駄遣いである。だから、大抵は三本か四本借りて、一週間でちゃんと全部を観るのだが。TSUTAYAの店内で映画を選んでいるときは、どれもこれも何を借りてよいのかわからない、と言う元気のない日もあるものの、大抵はあれもこれもと候補が上がる。実際は私の暮らし振りと言うのか、年齢も含めてのことだが、そう言う暮らしと照らし合わせると週に二本くらいがストレスなく観られる本数だろう。それがわかっていながら借りるときには二本で済まない。
返却してから駅に向かう。茅ヶ崎駅ビルラスカは今日をもって営業が一旦終わる。大規模改修のために半年くらいらしい長期の休業に入ると書いてあった、告知のポスターに。まだ開店前だが最大70%オフでなにかを手にいれたい人たちでなんとなく人が多い感じ。私はと言えば、まだどこに行くかも曖昧なままSuicaカードで改札に入った。
考えてみるにカードで改札に入れるようになる前は切符を買っていたわけで、とりあえずは最短区間の切符を買っておいてあとはどこまで乗るかは気紛れ、着いたら精算しよう、と言うやり方もあったものの、一応は改札で路線図を見上げてその時点で目的地を決めていた、のではなかろうか。
まぁ、どこに行くか決めていないと言うのは言い換えると遠くに行くつもりはなくて、せいぜい東は横浜、西は小田原、くらい、片道30分程度の範囲を想定しているのである。即ちよく知っていると(実際はよく知ってはいないのによく知っていると勘違いで)思っているから適当でかまわない。その程度のことである。
最初に上り電車が来たので乗り込み、なんだまたか、また鎌倉か。カフェ・ロンディーノでナポリタンスパゲティと珈琲と言う、結局はいつもの通りにそう決める。ところが、乗り換え駅である大船で降りて鎌倉へ行く横須賀線ホームへ降りると、ダイヤ乱れで次の電車が来るまでに20分以上待たなければならないと、放送を聞いてそうわかった。大船駅にはJRだけでもここまで乗ってきた東海道線、乗り換えるつもりでいた横須賀線、それに京浜東北線の始発駅でもある、以上三つの路線が乗り入れている。更に大船から片瀬江ノ島駅までモノレールも走っている。20分以上も待つのは我慢がならない。どこに行くかも曖昧なのに待つのは我慢がならない。情けないことであるがそうなのだった。
そこで発車のベルならぬメロディーがながれている京浜東北線の電車に階段をかけ降りて飛び乗ってしまった。繰り返すが、どこに行くのかも決めないまま。
ぶらり各駅停車のテレビ番組の、本当は用意周到に取材先が決められているが装いとして「気紛れに降車駅を決めて、気紛れに歩いては、たまたま見付けたちょいと面白い店で新しい出会いがありました」なんていうのにすっかり騙されて、それを地で行ってもろくなことがないことがほとんどだろうが、なんかそんな感じになってしまっている。
降車駅に石川町を選んでいる、ってことはやっぱり取捨選択をしているのだ。石川町なら中華街もあるし元町もあるし、山下公園まで歩いたり、あるいは丘の上の西洋館を訪ねることも可能。要は横浜観光の拠点と言うわけである。安心感が降車駅を後押ししている。
電車のなかではもう十日以上もかけて、なかなか読み進まないアンダスン短編集を読むが、やっぱり読み進まない。字面を視線が追い掛けて頭のなかで視覚情報を文字記憶と照らし合わせて文章として認識出来ている。が、その認識結果を意味に置き換えて理解するところで、他のことを考えてしまうと言う邪魔が入るのである。その結果、十行も二十行も進んでから、いま読んだところに何が書いてあったのか皆目理解していないことに気が付く。まぁ、そんなことになるのは物語としての重要な転換や出来事がその間には起きてないから、読み飛ばしても構わないことの結果だろう、と思い、その先からはちゃんとしっかり読んでみる。ところが、何がなんだかわからない。あれ?ここに出てきた名前の人物は誰なのか?とか。そこで、字面を追っただけの十行か二十行を今度はなんとかちゃんと読んでみる。すると物語の重要な転換となる出来事や、人物の登場がそこにあるのだった。
母親が亡くなり、父親が大火傷を負い、周りのそう言う状況に追い立てられるように町を出た青年が、列車で出会ったラッパを吹くのが趣味の老人、この老人は若い奥さんに資産を牛耳られていると言う後悔と憤怒を持っているのだが、その老人に気に入られて老人のやっている下宿屋に転がり込み工員としての暮らしを始める。そんな話が進んでいる。
なかなか読み進まないからと行ってもつまらない訳ではない。そこが不思議なところなのだ。
石川町の元町側の改札を出てすぐのところにあるポティエ・コーヒーに入る。まだ朝食を食べていないのだった。空腹。モーニングタイム11時まではコーヒーの代金、たとえばブレンドの場合なら550円で、希望者には無料でトーストとゆで卵が付くとのこと。もちろんそれを頼む。ゆで卵を剥くのが苦手で、くるりと言うのかするりと言うのか、そう行かない。
 私が店に入ったときに「煙草を吸うか?」と聞かれ、吸わないと答えると、いま二階の禁煙席は満員なので一階のカウンターしか空いていないがそれでいいか?と聞かれた。そうして座ったカウンター席にいると、常連のおじさんたちが朝を食べに来たり、横浜観光の外国の方がテイクアウトのアイスカフェオレを買って行ったり、大量に豆を買っていく客(ここの豆を使う喫茶店の主人なのかな?)がいたり、人の行き来が盛んな店である。常連のおじさんは「トーストもね、半分に切ってね」と言って、私の後ろを通り過ぎ、二階に上がって行った。
 そのときに、おじさんから床屋の香りがただよった。散髪帰りなのだろう。その香りから日曜の朝に床屋に行ってきた、という休日らしい過ごし方が、私も二か月に一度くらい休日の朝に床屋に行くわけだが、私自身がそうした日よりも、こうして通り過ぎた他人からそれを連想させられると、その過ごし方に好感を感じる。自分のなんとなく焦っているような気分がすっと消えていく。そのうちに焙煎がはじまり、一階にはとくに、珈琲の香りが充満してくる。それもまた素晴らしい香りに思えた。
 そのあと中華街経由で本牧A埠頭をぶらついた。誰も観光客のいない、休日なので港湾関係者もいない、もう真夏のような暑さの倉庫やコンテナ置き場のある殺風景を歩く。
 そんななかにニセアカシアが林のように密生している場所があった。(二枚下の写真)