桜の枝をためつすがめつ見上げる


1990年頃に、桜前線と一緒に北上しながら仕事をしていく人、カメラマンだったか、ほかの仕事だったか忘れてしまったのだが、そういう人が出てくる短編小説を読んで、ちょうどその頃に連続して一週間休みが取れる勤続10年目だかの休暇を取れたので、当時乗っていたクリーム色のニッサンのコンセプトカーを運転して、あちらこちらに桜を撮りに行った。八ヶ岳のあたりの美術館の桜とか、山を背景にしたしだれ桜とか。あるいは、福島の三春の滝桜も。薗部澄の桜のある風景写真を集めた写真集を参考書にして、訪ねる桜の名所を決めていた。
 その写真集も数年前に売ってしまった。
 あれから毎年、桜が咲くと写真を撮る。それまでよりずっと意識的に被写体と認識して、世間と同じように狂騒しているようなものだ。
 小学生のころに住んでいた家の近くの総合病院の敷地内にはたくさん桜があった。桜が満開になることを待ち焦がれたり、花見をしたり、時間を掛けて鑑賞したり、そんなことはしない。桜が咲くことなんか子供にとってはどうでもいいことだったか、それでも満開になると、これは特別にきれいな日だな、とは思ったらしく、いまでもなんとなく満開の日の気分なのか風景の欠片なのか・・・覚えているものだ。
 小雨の日、家から茅ヶ崎駅に向かう途中にある「市井の桜」の下に立ち、いつものフルサイズDSLR+50mmもしくはもっとワイドの単焦点レンズではなく、借りてきたAPS-CサイズのDSLR+8倍程度の標準ズームで空を背景にして枝が作る「かたち」をためつすがめつ鑑賞する。少し立つ位置を変えるだけで枝が描く「かたち」が変わる。これは白い紙に毛筆で「字」というより何かを類推させるような形状を、あるいは何か美しさを感じさせる形状を、制作する「書道」に似ている気がする。書道が紙に「描く」というプラスの行為とすると、曇り空という白紙にすでに枝によって描かれている形状から「選び取る」マイナスの行為のようだ。プラスでもマイナスでも、写真が出来ると「屏風絵」を作ったような感じになる。
 ここ数年はこういう「撮り口」になっている。こういう写真なら、どこか著名な桜の名所に行く必要がない。その代りに曇天が必要だ。
 意外に難しいのは露出でプラス3と1/2段ってところがちょうどいいのだった。