曇天の空を背景にして


 朝、自家用車を運転して自宅から30分弱、平塚市と大磯町の境界付近の丘陵にある「湘南平」まで行ってみる。曇天。ときどき気まぐれのような雨。写真を撮っているときには、画面のの中の「端っこ」だけに桜花を置いて、白く飛ばした曇天の空を大きく取った構図が「うんうん、なかなか新しそうではないか!」と思って悦に入って撮っている。それが楽しいのだが、帰宅してから撮った写真を見なおすと、撮っていたときの感覚よりずっと桜の入っている領域が大きくて、それゆえありきたりで、がっかりするのだった。
 桜が咲くと、桜の写真を撮りに出かける。とくに強い意志で出かけるようになったのは四十代に入ってからで、以来十五年以上、桜が咲くと右往左往している。
 実際にその光景を見ているときには花を見ている。写真になって目に付くのは枝ぶりのようだ。それに気が付いてから、画面の中に黒々とした「龍」のようでもある枝を、くねっている枝を、どう置くかということを気にするようになった。するとなんだか下手くそな襖絵のようだ。
 実際にその光景を見ているときには美しいところに目が行く。その光景を写真に撮ると、予定調和的な「いい」写真からずれているところが欠点のように見えてしまう。本当は実際にその光景を見て美しいと感じるのと同じような写真の見方が出来た方が素敵だと思うのだが、実景と写真では目が行くところが違うのだ。