シャイで引いているけど興味津々

 91年に撮った写真のネガから昨日に続きもう一枚。これは桜の頃に横浜の根岸の森林公園で撮った写真。たぶん一度もプリントせず、撮ったことも覚えておらず、眠っていた写真です。初お披露目。今年の桜が、例年より少し早く、たとえば3月25日に満開になると想定すると、あとわずかに18日後に迫っている。桜が咲くのは、葉を落とした落葉樹が冬のあいだにひっそりと町のなかに目立たずに生きていたのが、一斉に決起もしくは蜂起するような感じだ(というこの印象のことはこのブログにも春が来るたびに書いているんじゃないかな・・・)。そしてその最初の蜂起を皮切りに、桜の花が散るのを合図のようにして、春の新緑がいっせいにあらゆる木々で追従連鎖して芽吹いて行く。息苦しいくらいだ。たまに桜が満開の日に季節はずれの雪が降ることもある。いるかの「なごり雪」の歌詞のように。今もむかしも、この公園で桜が満開となる土日は、ブルーシートが敷き詰められ晴れていればもう大勢の人が出てきて、その中をピザを配達する、今ならばウーバーイーツの配達員が右往左往して客を探したりもして、大変な状況になるのだけれど、花曇りの平日の夕方にはこんな時間もあるのだろうか。

 自分がこの頃に撮った写真と、自分が今撮っている写真は、あんまり変わらないので、進歩がないという言い方もできますね・・・びっくりする。この頃の写真の方が、いまよりもっとコンポラっぽいかもしれない。

 ウィキペディアで「コンポラ写真」を調べると、写真家の大辻清司さんがカメラ毎日68年6月号に書いた「コンポラ写真の定義」が載っている。

・横位置が多い ・写真表現のテクニックの否定 ・日常の何気ない被写体 ・誇張や強調をしない ・標準または広角 ・撮影者の心境を現した被写体との距離感

となっている。

 いろんな写真を見ているなかで「(なんとなく)コンポラっぽい」と感じる写真はこの定義に照らし合わせて、そうか!とはすぐには納得できない。そこがテキストで分類できない隙間があるということの面白さだろうか。横位置でテクニックを使わず日常のとある季節の一日を強調せず見たままに広角で撮った・・・ここまでは上の私の写真もまぁそういうことだろう。問題は「撮影者の心境が現れる距離感」というところで、当時、コンポラ写真と言えばこの人とされる、牛腸茂雄の写真集「日々」の代表作など思い浮かべても、その距離感に写欲をぎらぎらとは見せていないとはいえそうだけど、だけどちょっとだけは決定的な瞬間でもあると感じる。ということは「シャイで表に出さない一見引いているけど、実は興味津々」といった人柄のような「感じ」が写真に現れているということなのかもしれない。