4月1日土曜日。午前は昨日からずっと続く冷雨、午後になり雨上がるものの肌寒く曇天続く。十日ほど前に東京では桜の開花宣言が出たそうだが、都内はどうなのだろうか、茅ヶ崎あたりではまだまだ満開には程遠いようだ。
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4月2日日曜日。うす曇りもしくは晴れ。午前8時に茅ヶ崎を出発して今日もまた立石海岸まで行ってみる。8時45分着。県立駐車場に海を向いて車を停める。サンドイッチを食べ、ホット珈琲を飲む。トイレに寄ってから、いつものようにカメラを持って岩場を歩いてみる。10時20分頃に立石を出発し、一時間程度で帰宅する。
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ここ数回、このブログに昭和40年代に撮られた写真を載せていたので、今日撮った写真を「それっぽく」加工したらどうなるかと遊んでみる。周辺光量を落とし、周辺の解像をとくに劣化さ、中央も少しだけ劣化させ、彩度を落とす。それでも、この写真は、撮られてから数十年経った写真の「ふり」すらできていない気がする。まず「劣化」だと思っている段階で間違っているってことなのかな。
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第一、どうしてそういうことをしようとしているのか?そこのところが不明瞭の「なんとなく」の遊びなのがいけないですね。いや、どうしてかと言うと、昭和40年代頃に撮られた写真が単純に「いい」んだよなあ。それで、その「いい」にどうしたら肉薄できるのか?もしかしたら数値的な「高性能」をそのころの数値に戻すと「いい」になるのかもしれん、と思ってフェイクで昔撮られた風にいじってみようとしたってことだ。でも、そんなことをしてもなかなか「いい」にならない。
写真を撮ること、撮られることが、ハレでなくてはならないのではないか。こんな風に引いた位置から「観察者」のような視点で風景を見ているというスタンスからして違うんだろうな。
ACのテレビCMで1964年に負けるなと言うのをやってます。そのCMで当時撮られた写真が次々と流れる。あのころのパワーに負けずに次のオリンピックを迎えようと言ったところがACの伝えたいメッセージなのだと思うが、人々が高度成長の時代に自然に持っていたパワーは、そう言われて気が付いて、ではではそうしましょうか、と今またすぐに獲得できないだろう。それと同じようなことが写真にも現れる。その不思議。
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