海の向こうの富士山

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とくになんの予定もなかった土曜日。自家用車を運転して三浦半島の葉山あたりへ。10時ころに県営立石駐車場に並ばずすんなりと停めることが出来た。すぐ近くのハンバーガーの店でシュリンプアボカドバーカーを食べて珈琲を飲んだり、下の写真の立石公園あたりを散歩したり、車に戻って昼寝をしたり読書をしたり、秋谷漁港のあたりから急坂を上り迷路のような住宅地を歩いてみたり、車に戻ってまた本を読んだり、日の沈む時間を調べ、その三十分くらい前から日が沈むまで海と太陽を眺めたり、そして5時過ぎまですごしてから渋滞の国道134号線をのろのろと走って帰宅した。

三浦半島のこの西側からは、空気の澄んだ冬、相模湾をはさんだ海の向こうに富士山がよく見える。立石に限らず、長者が崎でも森戸でも葉山でも逗子の渚橋あたりでも、ずっと海の向こうに富士山が見えている。駐車場に車を停めた人は、車を降りて、みんなこの下の写真と同じような写真を撮っていく。帰り道、上記に名前を連ねたようなポイントでも富士山を撮っている人が必ずいた。そして写真に写りながら富士山はどんどん暗くなっていく空の中に溶けるようにして見えなくなっていく。

数年前に伊豆フォトミュージアム現代美術家ショーン・タンの富士山を取り上げた作品展を見た。一般の方たちから募集収集した富士山の写真が使われていた。「夕焼け空」とか「雪原」のような場所を特定しないものではなく、富士山や瀬戸の渦潮や函館の夜景や、そういう「具体的」な場所で、日本でいちばんたくさん写真に撮られる場所は富士山なのではないかな。富士山が遠望でも見えない場所の方は富士山を撮ることは出来ないけど、それでも。富士山はコニーデの姿の美しい日本で一番高い山、と言う定義のものだけど、そういう定義の山を撮っているというより、そういう定義の山について子供のころから共通認識された山へ愛情というか崇拝というのか、そういう気持ちが多くの人の心にあって、その心が引き金になって撮っているってことだろう。すなわち日本人がスマホやデジカメで富士山を撮るときにはそういう共通概念に自分も否応なく参加しているという証明写真を撮っているわけだろう。

なんてまたどうも天邪鬼が小難しそうな適当なことを書いて煙に巻いている、かな。

日没の瞬間を見ました。太陽は沈み始め、半分になり、三分の一になり、十分の一になり、そうすると本当にその十分の一がゼロ(日が没する)になるまでの数秒に息を飲んでもなんの躊躇もなく、その瞬間に本当にあっという間に消えるものだ。そのリアルな時間軸に従っている太陽の沈み方に意識的にそういうものだよなと理解したのは中学生のときだった。たぶん一番日の短いころになにかの理由で校庭にいて、すぐ隣にいたクラスメイトに当たっていた日がふっと消えたのを見たときだった。

今日、私の近く(と言っても密距離ではないですが)で日没を見ている家族連れのお母さんだったかな、地球が回っている速度が見えている、と言っているのが聞こえてきた。

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