遠いむかし、東の夜空を上から下へ流れる明るい流星を見たことがあった。同じような晩秋か、あるいは冬のことだった。火球のなかには音が聞こえるものもあるそうだが、そのときは無音で、ただ明るい光が、夜空を横切って行った。
そのときも、たぶんもっと前から「無音」であることになにかを感じる。なにかは何だろう。永遠という言葉の持つ怖さと諦めのような気持ちを、それでもただの恐怖ではなく、そこに誤魔化しかもしれないが、砂糖をまぶして美味しい飴玉にして、口のなかでゆっくりと溶けていくことに意識を向けているような感じ。それが「なにか」かもしれない。
雨が降っているとする。天気雨がいい。地上で雨の中にいると、雨は自分の身体や立っている場所のアスファルトや周りの建物や植物にぶつかって、音を立てる。ざぁざぁにせよさわさわにせよ、それは雨の音だけど、正確には地上まで降りてきた雨粒がなにかにぶつかる音だ。もっと上空に行けば、雨はなににもぶつからず、すなわち音を立てないで、上から下へと落ちて行く。でも仮になんらかの手段でそこへ、その雨が音を立てていない上空へ、行こうと思っていても、自分に身体がある限り、雨は身体に当たって音を立ててしまうだろう。
電車が国道を高架線で横切った。電車の走っているがたんごとんと表記される音、がそのときしていたかどうか覚えていないが、とにかくなにか音がしている。しかしそんな車中の音に注意を向けていなければ、高架線から一瞬見える都会の国道を埠頭の方に向かって走って行く自動車は、その走行音が聞こえず、無音で走って行くように思える。音がないとものすごくスムーズに、動いて行くように思えるのは、遠いむかしに見た流星の印象が残っているのかもしれない。車はとても冷徹で正確に走って行くように見える。それぞれの車の中には思惑があるが、思惑は叶えられるとは限らない。その思惑だって、結局は過去の思惑の結果が、期待外れだったり希望と違ったりしたという結果を受けた先にまた未来に向けて計画されたことなのだ。
この写真は撮ったときにはピントも甘いし、露出オーバーだし、流れているし、思惑とは違ったから失敗写真だった。しばらくして見返したら、撮ったときの思惑とは違う価値観に基づいてあらたにその写真がいい感じに見えてくる。露出オーバーによって、微熱を秘めた感じ、諦めたくはない感じ、そんな気持ちが見え隠れするように写真が写っている。秋の夜に思ったことでした。