オニユリ レンゲショウマ ワレモコウ 

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8:30に到着したので駐車場で開園の9:00まで待ってから入園した。箱根湿生花園。夏のあいだの数日だけでも6時開園の日なんか作ってくれると行ってみたくなるだろうな。1970年代の50mmF1.2レンズ。せっかく全身金属鏡胴の重量のあるレンズを使っているのだから、その重さと引き換えのF1.2でボケ味を撮ろうではないか、と思うのだった。最近のデジタルカメラはマニュアルフォーカス時にピントの合っているところに色が付く設定などもあり、薄いピントでもピントをはずすことは少なくなった。例えば下のような写真はそのピントの合った範囲が同距離の帯になって距離環を回すと、手前から向こうへ、向こうから手前へと、動くのがなんだか風になびく早稲のよう。

もう40年以上前85mmF1.8を手に入れてポートレートを撮ったことがあったが、F1.8の開放でバストアップ人物写真をマニュアルフォーカスで撮って、目にちゃんとピントを合わせるのは至難の業だったな。ふとそんなことを思い出しました。もっと言うと、それは当時好きだった女の子をたくさん撮ったときのことで、大学の研究室の暗室で、休日に写真を引き伸ばしたとき、あまりにもどれもこれもピントをはずしているので、がっかりしたのだった。ちょうど竹内まりやがデビューした頃のことで、卒論を一緒にまとめたK村君が(彼も暗室で一緒に女の子の写真をプリントしていた)ずっとシャスト・フレンドって言う曲を歌っていた。些末なことが記憶されてる。

写真と言う日本語は真を写すと言うことだけど、写真の歴史は「真を写さない」方向に裾野を広げてきたのではないだろうか。第一、最初がモノクロームなのだから、真から色を取り除いたところからスタートしていて、これイコール「真にはある色を取り払った真ではない世界」と言うことになる。最初期は真を写し取るのにふさわしい標準レンズが生まれたのだろうが、やがてレンズ効果(パースとかデフォルメとか圧縮効果とか、言い換えると超広角や超望遠や魚眼が)がその「真でない」故に得られる迫力や驚きを提供しようとしてきている。ボケ味を作ることも目で見た真から離れるってことだろう。

何ていう技術的なことよりも、カメラマンがどこを見ていてそこを撮るに至った動機や決定はなにによって脳の中で下されたのか、と言うこともあるだろう。すなわちどこを撮るかに誰でも共通の『「真」はない』。いや「写真を撮る名所」と言うのはその『「真」はない』を覆して「真」になるよう皆の視点を揃えようとしている。

難しい。

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