光を集める感じで

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 昨日、神奈川県平塚市の花菜ガーデンを歩いて撮り集めた光景、上の写真とすぐ下の写真は50年代のスクリューマウントのキヤノン50mmF1.4で、一番下の写真は70年代のFD50mmF1.2アスフェリカルのレンズをマウントアダプターを介してフルサイズミラーレスカメラに付けて、開放にして撮った。マニュアルレンズの絞り環を操作し、ピントリングを回して、息を止めて撮る。デジタルだし、撮像面位相差AFによってマニュアルフォーカスでもピントが合っているところが色づいて示されるから、このアシスト機能によってピンボケの失敗も少なく、むかしの、これらのレンズが生まれた頃のカメラにはあり得なかった高速シャッター速度が設定出来て(だから昼間でも開放が設定できて)、ボディ側の手振れ補正機能がありカメラに装着しているオールドレンズの焦点距離情報をセットすると、なんと手振れ補正まで動作してくれる。と、こう書くとフイルムカメラを使っていた頃よりもはるかにずっと写真を失敗しないための機能が働いていてくれるわけだが、それでも、レンズに絞りとフォーカスの二つの操作環があり、絞りはレンズによっては一段ごととか1/2段ごとにクリック感があって、フォーカス環のグリスは固まらずにいてくれて、ねちゃーっというあの感じで回ってくれる。それだけで、被写体に向き合う姿勢が、たたずまいがしゃんとするようだ。あの、ずっと80年代から約25年のあいだずっと使っていたミノルタ・オートコード(二眼レフ)で6×6版の写真を撮っていたころの、ひとこまひとこま光景を四角い立方体に採集して歩いた日々のような感触が、思い出されるのだ。いや、デジカメでどんどんたくさん撮るときだって、カメラのなかに(SDカードに)画像を「撮り集める」わけで、ほかの単語が浮かぶわけでもないけれど。だけどデジタルカメラのなかは全部自動的に動いて(もちろんそうなんだけどね)画像データがカードに入っていくわけだけれど、二眼レフやフイルムカメラの頃は、例えていえばカメラの中に小さな人が働いていて、撮り集めた光景をひとつひとつ整理整頓しているようだ。いや、実際には圧板で平面になったフイルムに一瞬光の像が投影されるだけなんだけど。オールドレンズになるだけで、デジタルのミラーレスカメラであっても、そういう感じ、カメラのなかに小さな人が働いている感じが生じる。なので、ひっそりとひっそりと、そっとそっと、静かに静かに、光景を撮り集めては溜めていく。そういうときにこういう冬枯れた明るい光景は、それに向いた、拾い集めることに向いた光景なのではないだろうか。

 と、こんなことを書いていたら、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に袋の中に鳥を捕まえて集めていく人が出てきたことを思い出す。本棚をずーっと探して、昭和48年第六刷とある講談社文庫「銀河鉄道の夜風の又三郎・ポラーノ広場 ほか三篇」だけどいま読み返すと、その鳥捕りの物語の鳥を採る行為が、写真で光景を撮り集める感じとはずいぶん違っていました。

 賢治の小説はともかく、一人だけで明るい林の中を歩いて、ひっそりと写真を撮って集めたい、もっと。写真を見て、そう思いました。

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