晩夏

f:id:misaki-taku:20210822220225j:plain

今日のブログは今日撮った写真です!

日が暮れる頃に相模川河口あたりにいる。海沿いのサイクリングと歩行者用の小路を少し東に歩いてみる。南からの風が気持ちよい。真昼間はまだ真夏の一日と同じように蒸し暑かったが、夕暮れ時になるともう夏が終わりかけているのがよくわかる。人が晩夏を知るのはどういうところに五感が感応しているんだろうか。だんだん日が暮れるのが早くなっているからか、空の雲が少し高くなっているからか、虫の声が増えているからか、ツクツクボウシが鳴き始めているからか。そういう具体的ななにかの変化ではなく生物として遺伝子に刷り込まれている時間間隔がもう夏が終わるということを自動的に知らしめるのか。では晩夏を感じるとなんでちょっとおセンチというか哀愁というかそういう気分になってしまうのだろうか。でもこの年齢になると図太いもので、若いときにあったかもしれないこのおセンチや哀愁に負けてすっかり寂しくなってしまう当事者にはならずに、そういう季節が来たぞ!と傍観者のように楽しんでいるかもしれないな。それでもって晩夏は好きですね。以前もこのブログに書いたかもしれない持論だけど、まだまだ人類がいまのような文明の元に安心して生きるようになる前、洞窟のなかで火を焚いて猛獣の来週に備えていたような大昔(2001年宇宙の旅に出てくるような原人の時代)にはやはり寒く長い夜の冬は生存にとって脅威であり、日が短くなることを体感するってことはその脅威へ備えるべしという警告だったろうからそこで覚悟と諦めと悲壮のような気持ちが起きていたのではないか、そしてその名残がいまでも晩夏になるとちょっと哀愁のような気分になる・・・という「挽夏の理屈」を考えたことがありました。

これはまったくもって個人的な感覚だと思うけど晩夏にはソプラノサックスのジャズが似合うと感じます。などと書こうとしたらナベサダのパストラルという曲が頭のなかに流れ出しました。