大晦日

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12/30。突然の暖かな一日。昼にモスバーガーを食べたあとに、墓参に行くために国道一号線を西へ。二車線のあいだ順調に流れるが、平塚市から大磯町に入る金目川の橋を渡り一車線になると途端に渋滞がはじまった。空いていれば30分程の工程を2時間弱かけて行く。途中で鳥を寄せているお婆さんを見かける。なんの餌を撒いているのだろう、集まっている鳥は鳩でもカモメでもなく、なんと真っ黒なカラスなのだった。カラスを寄せるお婆さんが、冬の日差しを受けて逆光になっていて、その周りを何羽ものカラスが飛び回る。不思議であり不気味な光景なのだった。その先の肉屋には店の外に長い列が出来ている。なにを目当てに並んでいるのだろう。通り過ぎる車の中から、それを知ることはできなかった。墓参の帰り、今度は東に向かう国道は空いていた。写真は、墓参のあと、寺の駐車場から幹線道路に戻るための上り坂。この先で右に曲がると幹線道路だ。ガードレールの真ん中あたりにだけ日がさす。後ろに車が来ていないことを確かめて、坂道途中で停まりこの写真を撮ったのだ。写真を撮ろうと思う気持ちは、それはもちろん自分が見ている目の前の光景になんらかの、写真を撮ろうとは思わなかった光景との「違い」があって、その違いが、撮ろうと思うか思わないかの気持ちの「閾値」を越えるから撮るのだろう。その閾値はそのときの体調や気分で変化はするのだろうけれど。だから自分が撮ったすべての写真は(技術的な失敗で思った通りに写っていないことは多々あれど、それはそれでその失敗も面白くて失敗があるから成功ってこともあるわけだがそれはさておき)もういちど・・・自分の撮ったすべての写真はなんらか撮ろうと思った気持ちが背景にあっての結果なのだから、それだけで「特別」に違いない。そしてその撮ろうと決まる気持ちは説明するのが難しいのだろう、文章には出来ないような感覚のところのことなのだろう。だけどいざ撮っているときにはそういうある意味文章以前のピュアなことが支配した「撮影」行為なのに、撮った写真を選ぶときには、なんかとっても既存の尺度とか文章の説明がつくこととかに縛られて撮る自由を忘れてしまい、とても縛られた不自由から抜けられない、のではないだろうか、なんてことを29日にMさんに語っていたなぁ、わたし。今日は四枚しか写真を撮らなかった。だからこの一枚はそんな選ぶ行為の束縛とは関係なくここに載せられた。なんてことを考えると山のように撮って、素敵な写真を没にして、どうしようもない写真を選んでいるかもしれないから、もっとじっくりと写真を撮る方がよくて、そのために必要な枚数が絶秒に36枚だったりするのではないか。帰宅後、床屋へ。200円引きになっていた本鮪丼を駅ビル一階の魚屋で買って帰った。鮪をいったん別さらに取り、すし飯だけを人肌程度になるように軽くチンして、そこへ鮪を戻し、ワサビを溶いた醤油をかけまわしてから食べました。暖かいのは今日だけで、明日からはまた寒くなる。

 

12/31。昨日が嘘のような寒い日となる。昨晩深夜までかかって通信面(写真面)を印刷した年賀状に宛名面を印刷する。今年のはじめにいただいた年賀状を捲りながら住所を確認したり、このひとつきほどに届いた喪中はがきを見直したり。11:00頃に近所のポストではなく茅ケ崎郵便局の年賀状用のポストまで投函に行ったが、まぁ私の年賀状は元旦には間に合わないのだろう。指先だけが外に出るタイプの手袋はカメラマン用とうたってあったのを三十年くらい前に買ったものだ。そしてその手袋をして自転車のハンドルを握り漕いでいくと、当たり前のことだけど指先が冷たい。だから少し手袋を脱ぎ掛けのようにして出ている指先も隠れるようにしてみたりするのだった。

 

今年もお世話になりました。ブログを書いた日数が201日だった。これは2008年にこのブログを始めてからいちばん多かったらしい。どうしてそうなったのかはわからないです。