大学を卒業して入社したメーカー(いまもそのメーカーのサラリーマンです)で、某精密機械製品の機構設計者として図面を描くことが社会人のキャリアスタートだった。同じ機械学科卒の新人は、たとえば全社で50人いて、それがいくつかの事業部に振り分けられる。各事業で設計している製品カテゴリーがたとえば五つあって、そのうちの一つのカテゴリーに電気設計とか機構設計とか分野別の設計室があるなかで当然機構設計の課に配属される。課には、課長、課長代理・・・中堅、若手、新人、それから図面をトレースして仕上げたり青焼きをして配布したり、その他の雑多な事務仕事をする庶務さん(たいてい女性社員だった)がいて、すなわち当たり前の昭和の日本の会社の組織構成で、機械学科出身の新人が50人いても、同じ課に配属される「同期」はひとりかふたりだった。もう40年以上も前だったから、図面は手書きだった。同じ課のいつつくらい年上のOさんが祐天寺のアパートに住んでいた。アパートの部屋へ行ったことはなかったけれど、Oさんに誘われたり影響を受けたりした。日曜日にいちにちヨット(ディンギー)教室に行ってみようと誘われて葉山の海に出てみたり(その後は二度と行かなかった)、スキーに誘われて一度か二度だけ行ってみたり(その後は二度と行かなかった)した。ヨットもスキーもあんまり楽しくなかったのだと思う。きっとうまくなるまでの辛抱とか、人に教わりながらうまくなるというそのコミュニケーションの取り方とか、そういうのが苦手と言うのか、簡単に言えばこどもだったのだろうなぁ。プライドだけ高くて。だけどOさんがあるときにオートバイに乗ることにはまって、免許を取って、ホンダのXL250というオフローダーに乗り始め、その頃に片岡義男ブームで「彼のオートバイ、彼女の島」「スローなブギにしてくれ」などのオートバイが登場する小説も流行っていたことも重なり、わたしも溝の口にあった自動車学校に通って、中型二輪免許を取得した。この二輪免許を取るために自動車学校に通っていた期間のある日にジョン・レノンが射殺される事件があった。このブログにも何度かこのことを書いたかもしれないが、ジョン・レノンが射殺された日かその数日以内の運転練習で派手に(自動車学校内のコースで)転倒したことがあった。ジョンの死がなにか私に精神的な影響を及ぼして、巡り巡って転倒につながった・・・なんてことは普通に考えるとあるわけないが、私自身の転倒の「言い訳」として、ジョンの死があったんじゃないか、と思ったのだろう、そう思ったせいで、こんなことが消えずに思い出せる。あの頃はいつも陰鬱な曇り空だった気がする。熱が出て会社を早退し、駅のホームで電車を待っていたら、鳥の糞が頭の上に落ちてきたり、そんなふんだりけったりなことが重なっていた。仕事が忙しすぎて無理をしたのか急性腸炎になり一週間くらい会社を休み、そのあとお腹を壊しやすくなり、そんな胃腸の弱い感じはその後ずっと二十年くらい続いた。それでもOさんの影響で中型自動二輪免許を取ったから、最初はスズキの次いでホンダの250ccバイクを愛車としていろいろな場所にツーリングに行くようになった。祐天寺というとOさんを、Oさんと言えば上記のようなちょっと陰鬱だった頃と、オートバイのことを思い出す。Oさん自身はXL250で車の脇を抜けているときに、とある車のドアが急に開いた、そこへぶつかって骨折をし、以降はオートバイは止めてしまった。たしか、祐天寺のアパートで自炊はまったくせずシンクは使わないので、シンクに水を張って別のことに使っているんだ、と言っていたが、その「別のこと」が何だったのか。金魚を飼っていたと言っていたか、あるいはどこかでたまたま手に入れたおたまじゃくしを育てていたのだっけ?それともそういう生物部的な話ではなく、水中モーターを使ったなにかの模型を作るのに水を張ったシンクを使っていたという話だったかもしれない。
祐天寺。このOさんの話が1980年代のことだとすると、90年代には祐天寺の駅から少し歩いたところに今もあるカレーの店が大好きな後輩がいて、後輩と一緒に食べに行った。辛さに段階があって、辛さを増していなくても十分に辛くて汗がだらだら流れた。海外の地ビールが五種類くらいメニューに載っていて、そんなのを一本だけ飲みながらカレーを食べた。このカレーの店で辛さが四増しくらいの超激辛を完食できるYくんがいた。彼は電気回路の設計者で、長い休みを取って北米大陸やオーストラリアを何日もかけて自転車で横断したりする。そんなYくんだったが、急に会社を辞めてしまった。噂に聞くところだと、宝くじに当選して億単位のお金が入ったので悠々自適にしているとか。カレー屋さんの帰り道に古本屋があって、そこで「永遠の仔」を仲間三人で買って回し読みをしたのだが、下巻の肝心かなめのクライマックスのところでページが切り取られている本だった。なので、結局その部分を埋め合わせるために新刊書店で立ち読みでしのいだ。そことは別に、祐天寺から中目黒の方に行ったあたりにも古本屋があった。いや、この店はいまもあるかもしれないな。この頃、わたしは尾辻克彦と田中小実昌の本を集めていた。そして祐天寺のこの古本屋で尾辻克彦のまだ持っていない本を見つけて買ったことがあった。それがどの本だったのかわからないが、いまも尾辻克彦(赤瀬川原平)と田中小実昌の当時集めた本は本棚に並んでいる。手にして読み返すことはほとんどない。だけど読んでは定期的にブックオフなどに売る本として手放すことはない(そうしようか考えたことすらない)。残っている本というのは結局そういう本であって、再読は「可能性として残す」という言い訳のための方便で、ただ思い出を取ってある感じなのかもしれない。
29日、久しぶりの祐天寺で写真同人ニセアカシアのMさんと会い、静岡料理の店に行って3時間半、写真や本や音楽や、ほかの同人の方の話をする。むかでの絵が描かれた無風をむかでと読ませる岐阜の日本酒の新酒をちびちびと飲んだ。静岡おでんや焼津港直送の刺身や、この蕪とルッコラにジャコを振りかけたサラダなんかを食べた。