うさぎもなか

  先週、北関東に出張したときに 下野菓子処うさぎや のお菓子詰め合わせを買ってみた。うさぎもなか白あん と うさぎもなか粒あん と チャット と チョコレートチャット と、ほかにも幾つかの菓子が袋詰めされていた。昨日、5/13-15に行う写真展の写真に添える文章を書きながら、うさぎもなか白あん を食べることにしたが、ちょっと可愛らしいようで、でも見る方向によってはうさぎよりも蛙にも見えて、そんな風に見ていると気味悪さも感じるような。昨日は午後から雨で終日自室にいたので、ではこのお菓子でも写真に撮ってみよう、と、USBに電源の小さなランプの光をダークブラウン木目調のパソコンテーブルの上に置いたお菓子に当てて、APS-Cカメラ用のマクロレンズで撮ってみる。それからお茶と一緒に食べました。うさぎやという屋号のお菓子の店はほかにも何軒かあるらしい。この下野菓子処のHPを読むと大正四年創業。うさぎは創業者の干支に因んでいると書いてある。包装紙は詩人の相田みつをがデザインしたものもあると書いてあった。

 2歳から15歳頃まで住んでいた、父の勤めていた病院の正面入り口の車寄せのカーヴの隣に石で囲われた塚があり、杉か檜が植えられ、そこに白鷺塚と彫られた石碑があった。調べると、昭和13年の台風で止まっていた松の木からたくさんの白鷺が叩き落され死んだという。それを慰霊した石碑のようだった。そんなことはなにも知らないまま、ただ白鷺塚という石碑のあることだけは子供の私も知っていた。そして微かな記憶として近くの追分交差点あたりに和菓子屋があり、そこで白鷺最中という最中を売っていた気がするのだが、これは妄想かもしれない。平塚市には駅前に鷺月堂という鷺という字の付く和菓子屋さんがあるから、それと混同しているうちに白鷺最中なるものを私の妄想が勝手に生み出したのかもしれない。この病院の正面入り口近くにある白鷺塚の杉だか檜だかに、私が十歳の頃だろうか、落雷があった。私は自宅にいたが、自宅からこの塚まではたぶん100mくらいだったろうか、落雷のときはあたりの空気が揺れ動くとともにものすごい音がしたものだった。翌日、雷で真っ二つになったと聞いて、その木を見に行ったら、本当に幹が縦に真っ二つに裂けていたので、雷の持つパワーに驚いたものだった。こんなことを書いているうちに思い出したのは、この病院の入り口のあたりに病院の公用車の車庫があり、その公用車はヒルマンという車で、運転手が毎日のようにその車を綺麗に洗浄していた。ヒルマンはイギリスの自動車ブランドで、その後、ルーツ自動車傘下に入り、その頃にいすゞ自動車が完全ノックダウン生産で、いすゞヒルマン・ミンクスという車を製造していた(ウィキで調べた)。それで病院の公用車がヒルマンだったんだろう。うさぎもなか から妄想かもしれない白鷺最中を思い出し(妄想し?)、そこから白鷺塚経由でヒルマンを思い出したわけだけれど、その病院では研究用だったのか?山羊や兎を飼っていた。兎の目は本当に真っ赤なんだなと与えてはいけないと言われていたその辺のハコベなどをむしってきては食べさせながら観察したものだった。

 白鷺塚と書かれた石碑の横には北原白秋の歌が彫られた石碑もあった。「白鷺の 白鷺の 飛べば夕日の高麗寺 月になるやら 風じゃやら」とあるそうだ。

 話は戻るけど、いすゞ自動車はいまは自家用自動車は製造していないと思うけど、1980年代まではジェミニなんかがあった。117クーペいすゞだったっけ。もっとむかし、日野自動車も自家用車を製造していて、覚えているのはコンテッサという車だった。あの頃(小学生の頃)は同級生の男の子たちと排気量競争でどこのどの車の方がすごいぞ、という話をしていたが。カローラが1100を出してそれは+100の余裕だとか、コンテッサは1300だとか、小学生たちも車の名前や排気量には敏感だった。

 当面毎日載せておきます。写真展のお知らせ。

写真とイラスト2人展 岬たく / 江指廣一  茅ケ崎市文化会館1F展示室A

5/13午後~5/15