移ろっていく人生

 三郎がいたから歩がああいう人になって、だから私も歩のことを好きになって、そうやって元のところに留まらないで、次々動いて移動していくようなものなんだな、人が生きるということは、と今はそんなふうに考えています。では私は最近そういう生き方とか、世界とかいうことを考えがちというか言いがちで、歩には、もっと具体的なことを話したり、考えたりしているときの方が奈緒ちゃんらしくておもしろい、と言われるんですが、年齢とか、体調とか、季節によってそういう変化もまた避けられない、移ろっていくものだから自分ではどうしようもないですよね。
滝口悠生著「高架線」講談社文庫151ページ
 移ろっていく……そうだよな、読書をしながら共感する。若き頃なら本に線を引いて、ページの端をちょっと折ったかもしれない。何度かこのブログにも書いたけど、必然的に起きた感じることも、起きることは、なんでも、偶然と感じることも含めて、すべて起きる可能性のあるうちから選択された一つの出来事で、だから偶然も確率の低い必然であり、時間の流れの中で一人の個が生きるのは、その選択の積み重ねであって即ち移ろうものだと思う。
 今朝、通勤電車の中でここを読んで、風が吹けば桶屋が儲かる、という常套句を思い出したが、風が吹いてから、桶屋が儲かるまでのあいだにどんな物語が挟まってるか知りたくなり調べてみたが、ちょっと今では差別的だったり動物虐待のようなことも含まれていたから、むかしはなにも問題なくても、いまは例えばここに書き写すには躊躇する様なところもあった。
 会社で課題解決手法に関する研修なんかがあると、何故を遡ろうとか、因果関係のツリーを描こうとか、手法を習うけど、桶屋が儲かった事実から真因を探り、常に儲かるように施策を考えるわけだから、答えはいつも風が吹き続けるよう、風神と仲良くなるよう風神を接待するってことだ(笑)
 雷神と風神がいつも仲良しペアだとすると厄介だな。風神が風を起こして砂煙が立ち目を痛める、筈が、雷を伴うと、おへそが取られるぞ!と家に引っ込むから、目が傷まない、なので桶屋は儲からない。
 むかし、妄想しりとりとか言って、ある単語から妄想を連鎖させ、ストップが掛かったときに思い浮かんでいた単語を言ってもらい、最初のある単語から浮かんでいた単語のあいだにどんなに単語を経由してたかを当てる、というゲームが流行った。最初の単語がエビチリだとして、誰かは頭の中で、エビチリ→中華→飲茶→シュウマイ→駅弁→旅行→お伊勢参りと連鎖して、お伊勢参りだけ答える、すると他の誰かは考える。エビチリ→辛い→カレー→インド→巡礼→お伊勢参り、と答える。ハズレですね。エビチリ→取り分けて食べた→中華街の秋→あなたは疲れていて→僕は心配で→その心配をよそに急にあなたはお伊勢参りに行きたいと言った。そんな悲しき中華街。こんなのは、プライベートな出来事の思い出連鎖で、妄想しりとりとしてはちとちがう。失格だな。でも新たに思い出しりとりというゲームを作ればよいか?人の心の中はたいてい妄想しりとりか思い出しりとりをしてるだけなのかもしれないし。

 エビチリは食べなかったけど、先日中華街に言った帰り道に寄った食材の店で買ったキャンディーです。懐かしかった。コロナ前に海外出張が頻繁だった頃、誰かがお土産にくれたものと同じものを売ってた。包んだ紙には兎の絵です。お菓子はオブラートに包まれてる。

 では妄想もしくは思い出しりとりをはじめます。スタートは「兎」。