ロックのたましい

 だいぶ日が長くなりました。真冬にはもう暗くなりかけた時刻でもこんなに明るい。相変わらずの近所の散歩です。

 最近読んだ本に歌人穂村弘さんと、谷川俊太郎横尾忠則萩尾望都高野文子等の方々(敬称略)との対談を集めた文庫本があります。この対談集にはロックの甲本ヒロトとの話も収められているのですが、わたしはこの章は、最近少し慣れてきた「入浴しながら読書する」で読んだのですが、いやーもう生き様がかっこいいなあ、と感心仕切りでした。ロック音楽に感銘を受けてロックをやろうと決めた甲本さん、だけどそれがイコール音楽ではなくて、歌うことも弾くこともしなかった。まず最初に「ロック」という生き方、考え方、態度/行動、を実践した(というように私は読んで解釈しました)。これ、本当のロッカーたる所以だな。それで高校だったか大学だったかで、歌ってみない?と言われて歌い始めたというのですね。あと歌詞の出来るのも天啓のように何かがきっかけになると、あとはとても短時間で歌詞が降りてきて、いちいち深い推敲などしない・・・ビートニクの詩人みたいだな。

♪ 愛じゃなくても恋じゃなくても君を離しはしない 決して負けない強い力を僕は一つだけ持つ ♪

ところで甲本さんの詞(例えば上はリンダリンダの歌詞からで甲本ヒロト作詞)とともにギターのマーシー真島昌利)の詞も素晴らしいですよね

♪ヒマラヤほどの消しゴムひとつ 楽しいことをたくさんしたい ミサイルほどのペンを片手に おもしろい事をたくさんしたい♪(1000のバイオリン より)

 ところでこの「1000のバイオリン」の歌詞にはミサイルという単語が出て来て、五年十年前にはこんなところに唐突にミサイルが出て来ることにちょっと違和感を感じたものです。私だけかな? まぁここには、消しゴムからヒマラヤを、ペンからミサイルを、そういう想像を発展させるようなある意味子供じみたような青春ぽい漠然としているぶんピュアで大きな夢(のようなものの)大きさと重さを感じるわけですが。

 それで同じミサイルという単語が使われているのが くるり「街」。歌は最初

♪この街は僕のもの 手をとり登った山も あわただしい日々 知らぬ間に蝉時雨もやんで 京阪電車の窓から見える君の背を追って♪

とはじまりますがそののち

♪夕暮れのスーパーマーケットの前で吸うタバコや それを見て微笑む愛するきみのまなざしも 青すぎる空を飛び交うミサイルがここからは見えない♪

と続きます。この街には青空があるだけで、君へのありふれた恋心が伝わって来るけれど、世界のどこかの街にはミサイルが飛び交っている・・・と。この歌詞を岸田繁さんが書いたのはいつ?1999年です。いまや日本にだって近隣の国からいつミサイルが飛んでくるかわからない。そして毎日ミサイルが飛び交っている場所が地球には何か所かある。

 このブログを書きながら、ハイ・ロウズの「サンダーロード」のライブ映像をYOUTUBEで観ました。それを観ながら、いちばん人々が幸福に、少しでも近づいた時代は80年代90年代だったのかもしれないな、そこへ繋いでくれたのは60年代70年代だったんだろう、そして今、それがないがしろになっていったのは一体どういうことだ?と思うわけです。科学の進化なのか、政治家がリアルな戦争の悲惨さを身をもってしらないからなのか、経済の生んだ格差の歪なのか、政治家の個人の既得権益を守ろうとする気持ちが世界規模まで支配力を増すのか、あるいは誰かの妄想が群集心理を操作してしまうのか。国と言う単位が世界という単位ではないからそこに部分最適が生まれるのか。

 先日もBSニュースで観た、一般の方々が「檻に閉じ込められて銃弾を乱射されている」ような死にざまで、数万人も亡くなって行く、行った、というニュース。わたしたちは国立競技場やなんとかアリーナに詰めかけて音楽などを楽しむ。そのときに数万人という群衆がどれだけの規模か知っている、それと同じ群衆の命が一日で消えている。空しいっていえば空しいですよ。だけどサンダーロードのライブ映像を観ながら、それでもまだ、まだなんとか、間に合うように・・・と。

 写真は近所の消防署の裏にある駐車場に停めっぱなしになっているはしご車。ナンバーが外れているから廃車なのか、それともこれからナンバーが取得されるのかは、わかりません。