春の風が吹いていたら

 この写真は見ての通り画面左右二本の木から伸びた枝にだけピントが合っている。右側の新緑は黄緑色で、左側の新緑はもっと濃い緑だ。1970年代の50mmF1.4レンズを絞り開放のF1.4で撮っている(カメラは最近のフルサイズのミラーレスカメラで、この種のカメラはマウントアダプターというのを使うと古いレンズが大抵使えるからオールドレンズ救世主だ)

 風景写真なのにあえて絞りを開いてこんな風に狭い深度で撮ることは邪道とは言わないけれど、あまり一般的ではないかもしれない。こうしてオールドレンズなどを装着し、電子ビューファインダーを覗き込んでリアルタイムで液晶(あるいは有機EL)画面に表示される、すでに眼の前にある風景ではない狭深度で低画質な画像を見ているのは面白い。ちょっと万華鏡を見てるようだ。風が強く陽の光を照り返している葉が動いていると、深度の外ゆえに光の点が丸く広がった「ぼけ像」が明滅するのが美しく見える。シャッターを押すとその明滅の一瞬が静止画として記録されるから、こうしてブログに載せているが、リアルタイムで揺れ動く風とともにボケ像が明滅するのは動画でないとわからない。この画面中央上部の白く丸い光のボケ像が明滅して見えるということだ。だからこれは風景写真ではなくボケ像を主被写体としたかった写真です。

 これを「レンズを通った光が、カメラのCMOSセンサーに結んだ結像を、マイコンやら回路やらを介して、画像電気信号に置き換えて液晶に示しているのを見ている」と、こう書くと、なんだかあいだに最新のテクノロジーがたくさん介在していて、自然に見えるのとは違うから、テクノロジーに騙されているだけで興ざめな感じ・・・がしないでもないが、この明滅はこういう最新テクノロジーを介さなくても、電池を必要とせずマイコンも液晶もなかったころの一眼レフカメラでも見ることができたと知ると(一体どういう理由でそう思うのか判らないけれど)途端に「興ざめ」ではなく「胡散臭く」もなく、素敵なガラスの魔法だ!と肯定してもいい感じに思えてくる。たまたま最新テクノロジーにより見せ方の代替(ピント板から液晶への代替)が起きたけれど、見ているのはレンズが翻訳した風景の持つ光のさざめきや呟きなのだ・・・と、詩的な気分になってしまう。・・・私だけかな?世代によって感じ方が違うのかな?

 堀江敏幸著「オールドレンズの神のもとで」のタイトルの掌編は、そういったこととは関係ない話だったけれど、このタイトルだけを拝借してしまえば、このオールドレンズの結像により明滅するボケ像や写真に写っている虹色の迷光は、レンズの神が光を司って仕掛けた悪戯だと思えてきて、とても愛おしいものだ。

 春の気持ちよいそよ風に吹かれながら、ときどきカメラをのぞき込み(そういうときはやっぱり最新のデジタルカメラじゃなくて古い一眼レフフイルムカメラの方がいいな)光の明滅を眺め、カメラを置いてから少しうたたねをするようにじっとしていると、警戒を解いた小鳥の群れが頭上の木々を渡って行く声が聞こえ、ふと横を見ると菫の花が揺れている。何時になったらここを去って次の予定のために行かなくちゃならないんだっけ?まぁいいじゃないか、そんなことは、とばかり空を動いて行く雲を見上げる。

 そんな春の日があればいいんだけど・・・

 と、こんなセンチな文章を書いていたら吉田拓郎の「春の風が吹いていたら」が聴きたくなりました。