叙事的写真 叙情的写真

 4月15日の仙石原。昨年の秋に立ち枯れたのだろうススキ(またはその類の植物)が枯れて乾いたままなのにまっすぐ立って、なかには穂さえ残したまま、湿原を覆っていた。その中にある木々は・・・ハンノキやニセアカシアのような湿原の木だろうか?・・・新しい葉をやっと芽吹きはじめている。数日経てばこの新緑はみるみる木々を覆ったことだろう、だからきっと今日ここに行ってももうすっかり違う景色になっているんじゃないかな。立ち枯れたススキ類もいつか消えるのだろう。それがどういう経緯で新しいススキに変わるのか、調べると春に新芽を吹く多年草とあるから、じきにこの立ち枯れた様子を一新する新しい芽がススキにも出てくるのだろう。そうなる前の冬枯れの姿を、白くなった骨のようなススキを見るのは、漂白された終わりの景色を見られるのは、これもこの春ゆえのことだった。景色を見るときにも過去を振り返る見方があるんだな、ちょっとうまく書けないけど、そんなような気持ちが起きました。

 二枚の写真、上の写真はオールドレンズの絞り開放でピントの合っている距離範囲を狭くして(被写界深度が狭い)ピントのあった距離より手前と奥がぼけるようにして撮った。オールドレンズなのでピントのあったところの解像感も低くふわりとしてしまっている。下の写真は開放からだいぶ絞っているので、上の写真よりは解像度が上がり、ピントの合う距離範囲も手前から無限まで広がっている。下の方が見た感じに近い。それぞれの写真になにを思うか?下の写真は叙事的で、見たままに近い景色を写真で示している。上の写真は見たままではなく、ぼんやりと、ふんわりと、こういうのを「心象風景的な」「ノスタルジックを誘うような」と言うのかもしれない、すなわち、叙情的な味わいが増えている・・・かもしれないですね。写真の場合、この叙情的たる感情はたいてい過去に向かうから「思い出を見るような」という要素が増えている・・・かもしれない。かもしれない、としか書けないのは、これは鑑賞者の心の話だから正解なんかない。

 叙情的 感情が外にあらわれる様子

 叙事的 事実をありのままに述べるさま。対義語は叙情的

鑑賞者は写真が叙事的でもそこから自分の記憶を辿って叙情的なことを思うかもしれず、もしかすると写真が叙情的にすぎると鑑賞者の「思うこと」の自由を奪っているから、叙事的写真が鑑賞者の叙情に必要ともいえるが、撮影者または写真の叙情に鑑賞者が共感できれば、それは倍増した叙情的共感写真となり叙情的写真の成功とも言えそうで・・・・だからどっちが良いとか悪いとかの話ではないんだな。好き嫌いはあるだろうが。

 私は上の写真を選んで、下の写真はこの文章のための比較参考写真として載せたつもりだったが、こうして文章を書いたら、下の写真もよく見えてきてしまいました(笑)