春を見ていると春に先を越される

 4月になり日が進むのが早く感じる。それは目に見えて、あるいはその他の五感が感じている、変化の速度が速くて、自分がそれを追いきれないからだと思う。カラオケで年配者が歌を歌うと、一節を歌った最後の音を伸ばしたまま、もう伸ばすのを止めて次のフレーズを歌い始めなくてはならないのに、その最後の音の余韻に浸っているかのようにテンポを無視して伸ばしているから、いつのまにか演奏と歌が歌が遅れる方向にずれてしまうことが多々あるんじゃないか?若い頃には、不遜にも、そのよくある「遅れ」に出会うと、やれやれお年寄りは……と思ったものだったが、いまや自分自身、例えば車のなかでUSBメモリーに入れた音楽に合わせて歌を歌っていると、そういうことを起こしてることに気が付くのだった。

 春が先に行くと思うのは、その歌い手と似ているんじゃないか?もっとゆっくり見ていたいのに、桜は咲いて散り、新緑は生まれてあっというまに枝を覆い、まだ春物の服は出しておらずウールのセーターが引き出しの多くを占めているけれどもう暑くてセーターは着そうもなく、早く食べないと居酒屋等で春野菜を食べる機会ももうすぐ終わりそうだ。なのに、もう昨日のことなのに今日の春だと思いながら余韻に浸っている。だから時間が早く過ぎる。

 フイルムは36枚撮りのISO400ネガカラーを、だいたい月に四本くらい撮るペースに落ち着いている。四本を撮り終えると、横浜にあるとある郵送現像サービスにフイルムを送って現像をしてもらうと同時にデータ化してもらう。今日の写真もそんな中にあった一枚。だいたいひと月前から先週くらいに撮った4本の写真を見ていると、その早く進んできた春を振り返って、変化が大きいがゆえに、少し前のことでもすごく前のような気がして、すごく前に思えることはもはや懐かしさを纏っている。フイルムカメラが撮ってから写真を見るまでに時間を要することにより、撮った写真を初めて確認しているときにすらすでに、そこには懐かしさが生まれる。とくに春は。

 カラオケでその後のテンポのずれを起こしてしまう、節の最後の音を余韻をもたせて伸ばしすぎてしまう、その歌い手の心情のように、春を見ていると春に先を越されるってことだ。でも慌ただしく並走しなくてもいい。

キヤノンA1 FD28mmF2.8