ありふれた写真についての独白

 日常の暮らしのなかで見ている光景はありふれている・・・と思っている。代り映えがしないつまらない光景のなかを歩いている・・・と思っている。たまに、いつもの通勤通学経路から少しだけ離れた隣町に行くと、そこには日常の暮らしのなかの光景の続きでありふれている、けれど、その少しの違いが目を引く。その少しの違いの吸引力をぎりぎりのエネルギーにしてカメラを取り出して、一瞬だけ立ち止まり、写真を撮る。きっと私が日常と思っていてありふれた光景の町を初めて歩く人がいるとすれば、その人は私のありふれた町のなかに、その人の新しい驚きを見つけ、その人がスナップ写真を趣味としているならば、どこかにレンズを向けて撮るのだろう。灯台下暗しとはちょっと意味が違う感じだけど、見慣れた日常で何度もその町を通っているとかえってその町を、ちゃんと見れば、写真に撮るとよい場所がたくさんたくさんあるのだろう。だけど結局日常の暮らしのありふれたなかで写真を撮ることは難しいし、撮影枚数もなかなか伸びない。

 もしそういうところでシャッターを押せれば、写真プリントなりモニターに現れた画像データを見ると、そのときにはきっと「日常のありふれた」を脱して、その写真の良さが見えてくる、そんな気がする。撮れさえすれば、あとはうまく行く。この写真はわたしのよく行く(日常の)町から数百メートル離れた隣町で、右手前のビルの「ちょい古」感じに惹かれて写真を撮りました。撮れさえすれば、うまく行く・・・すなわち、写真としてモニター画面で眺めていると、自分で写真をいいと思う理屈までは、自分でも自分のことがよくわからないけれど、いいじゃん、と思ったのは事実だ。

 以前カメラ雑誌で、著名な写真評論家が、誰でも撮ることができる場所であって、誰も撮らないそこを、撮ることがほめるべき(・・・だったかな)写真行為だ、と書いていた。

 まぁこんなのはある一つの気分であって、一方できれいな夕焼け空を見たいし、海に行けばかっこいい写真を撮りたい欲もある。場所と場合と時刻と状況によって、撮りたい写真や撮る写真を使い分けてしまう。カメレオンのように七変化しては本物の写真家ではなくなんちゃって写真家を七変化して行き来している。そんな感じ(笑)

 今日はいつに増してつまらない話でした。雪は積もらず終日ほぼ雨でした(南関東)。