白い菖蒲

 咲いたばかりの花は美しい。もう菖蒲が咲いている!と嬉しくなり、写真を撮る場所を選び(背景が暗くなるように)、周りの柵やらロープが写らないように焦点距離を変えて、白い花の中のコントラストが残るように露出を補正して、電子ビューファインダー内に表示されるシャッター速度を見ながら、手振れしないよう、レンズの先の方を支えて、シャッターを押す。

 こういう写真行為の「計算」と、最初の「嬉しい」と思う感情の、それぞれの関係ってどうあるべきなんだ?と写真を見て思う。わたしは写真になってはじめてこの花を仔細に見ている。そしてその場にいたときに、もっとちゃんと花を見るべきだったと後悔することさえあるのだ。そんなことなら写真なんか撮らなければいい・・・と理屈ではそう考えるが、自分の気持ちに「写真を撮らなくていい」という気持ちは全くない。写真中毒者だ。ではカメラを忘れていたとすると・・・そういうことは起きないんだけど(必ずカメラは持っている、最後はスマホカメラさえある)・・・一台のカメラも持っていないとしたら、例えばこの花のあった庭を前にしても「今日はカメラがないから、入らなくていい」と思うのか?いや、そんなことはないだろう。もしかするとカメラがないことで、悔しくなりながらカメラがあるとき以上にじっくりと花を見たかもしれない。

 カメラは意欲であり動機だけれど、カメラは依存であり妥協でもあるのかな。写真を撮るまでに、被写体との関係構築にものすごく時間を掛ける写真家がいる一方で、写真は枚数が命とばかり、次から次に目の前に現れるものをスナップしていく。いずれにせよ、花は美しい。

 花が枯れ行くまでのあいだに、花弁の縁が萎れてきたり、虫に食われたり、ときには花弁のひとつがなにかの理由で失われてしまう、そういう時を経た花だって美しい。(「美しい」という意味が瞬間的な今のことか、時間の流れを意識するときかで違うかもしれないが。)そういう世の中との接し方を、意識せずに出来るようになりたいものだ。

 なんだかごちゃごちゃ言っているな・・・(笑)