写真を撮っているときに、カメラマンはそのときのその場に存在しているのだろうか?などというちょっと変なことをこの写真を眺めながら考えてしまいました。疎外感というか。まぁ、そんなことはどうでもいい?以下もそんなことを訳もなくつらつら書いているので、読まなくていいです。
写真を撮るときにいちいちファインダーを覗かずにノーファインダーで撮ることも多いです。この写真もそうだったかもしれない。たぶんAPS-Cサイズセンサーのミラーレスカメラに70年代の24mmか35mmのマニュアルフォーカスレンズで撮っていますね。左上に緑色の絞りのかたちのゴーストが写っていて、そこから右下に向けて色は緑ほど目立たないがさらにいくつかのゴーストが写っている。それが古いレンズらしさになっていますね、最近のレンズではこれほど多くのゴーストは出ない。ゴーストが疎外感に関係しているわけではないと思いますが。
そして、ファインダーを覗いて撮っているのであれば最近のEVFは光の結像を直接見ているわけでもなく、短時間差とはいえ光学結像を電子信号に変換して液晶に表示しているから、その電子像を見ることによる時間遅れによって、リアルタイムのこの世界に実は属していない、そこから疎外感が来るんじゃないか、などともでっちあげられる気もする。だけどノーファインダー撮影はそうじゃなくて、リアルタイムにここを見ている。シャッターが切れて像が記録されるまでの時間遅れはあるけれど、それは別に今に限ったことではない、フイルム時代でもそうだった。
この写真を撮ったそのときに、たとえばこのスカートの女性が赤信号で停められていて、これから青になればアクセルグリップを回してスクーターが発車する、そういうリアルタイム、そのリアルタイムに自分がいても、女性がどういう目的でどこに向かっていて、なにを思っていて、どういう気分なのかは、リアルタイムにいてもわかるわけないのだが、それでもなんとなくちょっとは「わかるよ」というところがある気がする。その「わかるよ」が、カメラマンになると、眼の前の光景を、出来上がる写真を想定して見てしまっている。すると「わかるよ」ではなく、まったく「わからなくなっている」んじゃないだろうか?というような感覚ですかね。そりゃそうか、こころここにあらずなんだから、光景に親身ではない、というか。
エアコンが効いてる室内にいて、ものすごく透明度の高い窓ガラス越しに向こうの世界を見ているのと、単純に窓ガラスの向こうの世界にいるのとの違い。そんな感じの違和感/疎外感を感じるので、なんとなく最近は路上スナップの成果が少ないんじゃないか。夢中になれないんじゃないか。すなわち写真に「しよう」などとは思わずにただただシャッターを押していくことが解決策なのだろうか。