懐かしさって

 毎年、この季節になると、鎌倉市の大船フラワーセンターで早朝開園日が設けられます。池や鉢植えの蓮が開花する時期に早朝の涼しい時刻から花を見てもらおう、という企画でしょう。この植物園には百日紅の木が、10本くらいでしょうか、まとまって植えられている場所もあります。だけど、まだまだ開花してませんでした。神奈川県の湘南地域の平塚市や茅ケ崎市や藤沢市には、百日紅を街路樹にしている通りがあり、 いまや満開の花を咲かせているのですが、フラワーセンターの百日紅はまだまだこれからなのは、種類が違うんでしょうね。それから、湘南地域に限らず、ほかにも、私が知らないだけで百日紅を街路樹にしているところはたくさんあるのでしょう。

 上の二枚の写真は椿園です。真夏にはもちろん花なんかない。誰も入って来ません。私はこの土の小路に椿の木が濃い影を作っている、その乾いた地面にはぼそぼそと雑草が生えていて、せっそと蟻んこが動いている、そういうこの真夏の椿園が好きなのです。こどもの頃に住んでいた木造平屋の庭や、家の前の袋小路だった未舗装の道に、似ているから、懐かしさを感じるのかもしれません。

 そういえば、このフラワーセンターに行くために車を運転しているとき、ラジオでは作家の朝井リョウさんがお話しをされていて、人にとって懐かしいという感情は強固だ、というようなことを言っていました。

 私は懐かしさを感じるというのは、おセンチで甘ちゃんだと思っていたときもあり、もっと新しい何かに目を向け続けることが大事だと思ったりもしていましたが、最近は改心して?懐かしさを感じるというのは、過去が多い結果としてのその人だけのアイデンティティに基づく感情なのだから、これはいちばん強く、必ず起きる、重要な感情だ、と思うようになってきました。写真は撮った瞬間から写ったものが過去になっていく。それは、イコール、懐かしさを纏う、あるいは、纏わざるを得ないってことかもしれません。懐かしさのために写真を撮るというより、自動的にそうなって行くのが写真の本質なんだろう。だけど、この写真を撮ったときにはすでに自分の子供の頃のことを「懐かしく」思い出していて(それほど具体的にではなくとも・・・漠然とした気持ちとして)それがまた写真を撮る力になっているのです。懐かしさに押されて写真を撮り、それがその後に懐かしさを纏う過去のことになっていく。二重構造です。

 椿の葉はいつもつやつやと光っています。人が見ていなくても日光を受けて光っている。人の目ではなくて、レンズを通過して結像した像を、カメラのファインダーで見ると、ピントの合っていないところのつやつやはぼけて滲んで丸くなったりもします。真夏の椿園では、この丸い滲みが、ピントリングを回すことで変わっていく、それを見るのも楽しみです。上の二枚もピントの距離を変えて撮っています。

 ときどき枝に空蝉がくっついています。あるいは、暑さにやられた自殺行為なのか、ミミズが這って、干からびて、死んでいます。あぁきれいに使っていた白いスニーカーに土くれが付いてしまった・・・

 上の二枚の写真とは別にもっと絞りを絞ることによって、手前から奥まで、全部ピントが合っている写真も撮ってありましたが、こっちを使いました。懐かしさにゆらっと揺れる、それはやっぱり所詮はおセンチな気持ちは、こっちだと思ったのです。