レンズに記憶が宿る

 夏休みのある日、平塚市にある花菜ガーデンに行きました。百日紅がたくさん咲いているエリアを見物しに行こうと思ったのです。暑さのせいでしょう、また閉園まで一時間半くらいの時刻だったので、広い園内にいる客を全員集めても二十人にも満たなかったのではないでしょうか?百日紅のエリアには私しかいませんでした。1960年代に製造された50mmF1.4のオールドレンズを2020年に発売されたフルサイズミラーレス(デジタル一眼)カメラにくっつけて撮りました。

 そういえば、2000年前後かな作家の保坂和志さんの「カンバセイション・ピース」という小説が出たころに、よく「家に記憶は宿るか」というようなことが言われていました。家は人が住まなくなるとあっという間に廃屋になってしまう。だけど人が住んでいるあいだは、もちろんどうしても修理が必要な箇所にはこまめに手を入れるからだろうけれど、それだけではなく、住んでいる人がいることで家として稼働している、窓が開き風が通り、水道が捻られ閉じられ、床の上を人が歩く、そういう稼働状態にあることで、家が家の意志として生きている(稼働可能にいようとする)のではないか。そしてそこには家が長い間に見聞きしてきた住民の記憶(のようなこと)がエネルギーになっているんじゃないか。といった科学的というより文学的というのか芸術的な考え方でしょうか・・・実は科学的だったりしてね。

 なんで急にこんなことを思い出したかというと、オールドレンズに通過して結んだ像の記憶は宿るか?といったことをふと思ったからです。

 1960年代に製造されたレンズが1960年代から今日にいたるまで、いつ使われて来たか、あるいはいつから使われずにただしまわれているだけだったか、それはわかりませんが、ずっと使われてきたとしましょう。そうするとこのレンズは1960年代の家族や風景や恋人を見つめてきた、70年代の友人や街角や遊園地も知っている、80年代や90年代のあれこれも。そういうレンズがいまここで百日紅の花に向けられその像を結ぶんです。あるいは黄色い花、名前は何でしょう?黄色い花の像も結ぶのです。そういう今を撮るときに、もちろんオートフォーカスじゃないから手でぐるぐるとピントリング、よく言うヘリコイドを回してピントを合わせるのですが、そういう操作をしているときに、使っているわたしの心のなかに、ほんの片隅にでも、これはそういう風に時代を越えて世界の一部を見てきたレンズなんだな、と思うことで、もしそう思うことが撮った写真になんらかの差を生んでいるのであれば、それをレンズに記憶が宿っているという言い方をしてもいいのかもしれないとふと思いました。

そういえば堀江敏幸さんの小説には「オールドレンズの神のもとで」というタイトルの短編もあります。読んだけれど、中身は忘れちゃったな。