大磯

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朝6時過ぎに大磯の港の駐車場に車を停めて、夏には大磯海水浴場となる、漁港の船溜まりに隣接した砂浜、そこに数年前に建てられた、たぶん津波避難のための三階建てくらいの櫓と言うのか・・・櫓以外の単語が浮かびませんが・・・そこにカメラを持って登ってみた。このあと雲は切れて快晴になったのだが、日の出の時間は空一面が低い雲に覆われている感じで、日の光などなにも望めないのだろうな、と思っていたのだが、思いのほか幻想的なオレンジ色の空になり、そのピークの数分を経て、色は淡く色あせて、やがて朝になった。カメラはフルフレームのミラーレスカメラで、35mmと50mmの単焦点に100-400mmのズームレンズの三本を持って行って、ああでもないこうでもないと、とっかえひっかえレンズを交換しながら写真を撮った。帰宅して、写真を眺めて、ブログにアップするための写真を決めるときには、こうして人が点景に写っている写真ばかりを選んでいる。撮っているときも、35mmのレンズで人を画面内のどこに置こうかをちょっと考えながら撮っているときがいちばん慣れ親しんだとでも言うのか、オートマチックに出来る撮影であって、100-400で茜雲をアップにしてみた頑張った写真も撮ったけれど、だからなに?って気がして、そういうのは自分の「撮り口」でも「選び口」でもないと思える。きっと風景写真の教科書的には下の写真のように画面の右側に船溜まりが中途半端に入っているのは良くない(興覚めな)ことなのかもしれないが、良くないも良いもなくて、これが私の目の前に現実にあった風景なのだからこれでいいのだ!と、言いたい(居直り?)が、そのくせ撮ったうちの多くの写真は、上のようにその船溜まりを避けて撮ってあった。

フイルムカメラの時代の80年代から90年代には、ジョエル・メイエロウィッツのコッド岬の写真集や、そのメイエロウィッツに影響を受けたと後書きで明言している野寺治孝さんの写真集「TOKYO BAY」(1996)に感化されて、自分では「SAGAMI BAY」と称して、富士の6×4.5cmかマミヤの6×7cmのカメラで、水平線と空のある写真を撮りためたりもしていた。メイエロウィッツにせよ野寺さんにせよ、あるいはゴールデン・ゲート・ブリッジのある風景を定点撮影したリチャード・ミズラックも、皆、8×10インチの大型ビューカメラで撮る、その撮影機材選択が、あるべき姿のひとつの条件のようなことだったろうから、そこまでは踏み込まずに8×10よりはずっと楽ちんな中版で良しとしつつ、それでも撮り口を真似をしてたわたしは、あくまで「なんちゃって」なのだったが。

でもメイエロウィッツのコッド岬の写真集「CAPE LIGHT」には人が点景で映っているコマも多い。ニューカラーの人たちは、100-400(相当)の望遠など使わないだろう。私の「撮り口」「選び口」が、ニューカラーに影響を受けているのは間違いない。そうは言っても、日本のコンポラにも、森山さんのアレブレにも、木村伊兵衛ブレッソンの決定的瞬間にも影響を受けている・・・結局鑑賞者たる私が、目の前に現れる、さまざまな写真/写真集を、これも良い、あれも良い、そっちも良い・・・と受け入れてきて、だから写真鑑賞趣味は面白いし、だから本棚が写真集だらけになるし、だから自分が写真を撮るときにはそんな様々な憧れの写真を参照してしまってなんちゃってが七変化しているに違いない。

それでも友人の何人かは、たくさんの写真の中から「これが岬さんの写真でしょ」と言い当てるから、七変化にも通して共通ななにかがあるんだろうか。

1980年頃かな(この話はこのブログの過去記事にも何度か書いているかもしれないですが)当時は東急田園都市線市が尾駅が最寄り駅だった会社の寮に住んでいて、休日に田園都市線一本で渋谷まで行き、当時パルコ3だったかな、その地下にあったように覚えているけど洋書の店があって、上記のメイエロウィッツの写真集はそこで手にして捲り、その場で雷で撃たれたように、感動というか言葉をなくすような感覚で立ち尽くし、もちろん購入して大事に抱きかかえるように寮に持ち帰ったものだった。たぶんニューカラーの写真集をはじめて見たのだった。ほかにもこういうように写真または写真集を目の前にして茫然と言葉をなくすような感じになったことは三回か四回あったけれど、そのうちの一つだ。渋谷から長津田行の半蔵門線田園都市線の電車は、二子玉川の手前で地上に出るまでのあいだ、三軒茶屋や池尻大橋を地下で走る。あのメイエロウィッツの写真集を抱えた二十代の私は、電車が地上に出るのにあわせ走行の騒音がふっと変わる、その瞬間を迎えるのが好きだった。写真集を持って、違う世界(宇宙)に、その瞬間、本当はただ電車が地上に出たっていうだけなんですけどね、違う世界(宇宙)に飛び出たように思えたものだった。

寮の窓の前に買った写真集を数冊並べておいたが、ある日の夕立で開いていた窓から雨が写真集を濡らした。いまも持っている「CAPE LIGHT」や、荒木の「わが愛・陽子」や須田一政の「風姿花伝」など、そのとき並べてあった写真集はみな水を吸ってゴワゴワになりいまでもページが波打っている。あのとき一生懸命ドライヤーで乾かしたのだが平面には戻らなかった。

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初日の出を見に行く

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アラームを掛けたわけでもないが、目が覚めたら5:20だったので、せっかくいい時刻に目が覚めたので、それでは行ってみるか・・・と、5:55に家を出て、茅ケ崎海岸まで歩く。日の出の20~30分前に夏は海水浴場になるサザン・ビーチに着くと、例年の通りのこんな光景。でも、そうだなあ・・・例年より、少しだけ人出は少ないかもしれないか。マイナス2℃。毎年必ず、と言うわけではないが、二~三年に一度はこうして初日の出を見物に茅ケ崎海岸に行く。だけど快晴の年でも東の、日の上って来る水平線(正確には三浦半島が低く見える)には多かれ少なかれ雲があるものだ。今年もほんの少しだけ低く横になびく雲があったが、それでも「ほぼ雲はない」でよいだろう。

帽子を被った男が二人、並んで日の出を待っている、その後ろ姿をシルエットにして、珍しく構図をちょっと意識したりして、だからしゃがんでから写真を撮ってみた。この二人、元旦の6:30にこうして茅ケ崎海岸に来て、他の大勢の人たちに交じって立っているけれど、ここに来るまでにどういう時間を過ごしてきたのだろうか。いや、別にこの二人に限らず、ここに集まった、五人六人の若い仲間たちや、恋人たちや、ひとりで来ている若い女性や、私のようにカメラを持っている一人の男・・・みなここに至る時刻になんらかのそれぞれの物語で過ごしてきている。

この二人だって、例えばおんぼろの車を手に入れて、どこか遠くの北の街を一昨日くらいに出発し、途中まで二人ともが淡い恋心を抱く若い女性を同乗させて、面白おかしく過ごしたすえにここに来たのかもしれない。深夜にどこかでカップラーメン食べたり、気まぐれで入ったボーリング場で遊んだり、昼下がりに日の光で少し温まった車の中で昼寝をしたり、カーラジオから流れてくる彼らにとっての「懐かしい」曲を歌ってみたり、高速のPAのたびに運転を交代してでも女性は後部座席でずっと眠っていたり・・・それは眠ったふりで二人の男の会話を聴いていたり、結局のところ女性はここに着く数時間前に車を降りてどこかへ去ってしまい、男ふたりだけがここにいる。あと四日すると、片方の男は新しい仕事を始めるためにどこか南の方へ行ってしまうし、もう一人はなにも変わらず、いつもの仕事に戻るだろう。今の時間がずっと続けば良いのにな、でも仕事が始まったら、そのときはちゃんとやってやろうと思っているかもしれない。誰もがロードムービーの末にここに来ている・・・わけじゃないけど、そんな感じがするのだった。

いや、ごく近くに住んでいる人が、例年の通りここに来ていたとしても、彼にだって一年の時間が流れて、同じように海岸で初日の出を待っていても、一年前や二年前や数年前にここに立っていたときとは、思うことが違う。悩むことも、嬉しいことも、誇るべきことも、心配事も、ぜんぶ違う。だからこうして何かの区切りの日(元旦とか)に同じ行為をしていても、それは同じではないことの確認なのかもしれないですね。

よき一年になりますように。

大晦日

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12/30。突然の暖かな一日。昼にモスバーガーを食べたあとに、墓参に行くために国道一号線を西へ。二車線のあいだ順調に流れるが、平塚市から大磯町に入る金目川の橋を渡り一車線になると途端に渋滞がはじまった。空いていれば30分程の工程を2時間弱かけて行く。途中で鳥を寄せているお婆さんを見かける。なんの餌を撒いているのだろう、集まっている鳥は鳩でもカモメでもなく、なんと真っ黒なカラスなのだった。カラスを寄せるお婆さんが、冬の日差しを受けて逆光になっていて、その周りを何羽ものカラスが飛び回る。不思議であり不気味な光景なのだった。その先の肉屋には店の外に長い列が出来ている。なにを目当てに並んでいるのだろう。通り過ぎる車の中から、それを知ることはできなかった。墓参の帰り、今度は東に向かう国道は空いていた。写真は、墓参のあと、寺の駐車場から幹線道路に戻るための上り坂。この先で右に曲がると幹線道路だ。ガードレールの真ん中あたりにだけ日がさす。後ろに車が来ていないことを確かめて、坂道途中で停まりこの写真を撮ったのだ。写真を撮ろうと思う気持ちは、それはもちろん自分が見ている目の前の光景になんらかの、写真を撮ろうとは思わなかった光景との「違い」があって、その違いが、撮ろうと思うか思わないかの気持ちの「閾値」を越えるから撮るのだろう。その閾値はそのときの体調や気分で変化はするのだろうけれど。だから自分が撮ったすべての写真は(技術的な失敗で思った通りに写っていないことは多々あれど、それはそれでその失敗も面白くて失敗があるから成功ってこともあるわけだがそれはさておき)もういちど・・・自分の撮ったすべての写真はなんらか撮ろうと思った気持ちが背景にあっての結果なのだから、それだけで「特別」に違いない。そしてその撮ろうと決まる気持ちは説明するのが難しいのだろう、文章には出来ないような感覚のところのことなのだろう。だけどいざ撮っているときにはそういうある意味文章以前のピュアなことが支配した「撮影」行為なのに、撮った写真を選ぶときには、なんかとっても既存の尺度とか文章の説明がつくこととかに縛られて撮る自由を忘れてしまい、とても縛られた不自由から抜けられない、のではないだろうか、なんてことを29日にMさんに語っていたなぁ、わたし。今日は四枚しか写真を撮らなかった。だからこの一枚はそんな選ぶ行為の束縛とは関係なくここに載せられた。なんてことを考えると山のように撮って、素敵な写真を没にして、どうしようもない写真を選んでいるかもしれないから、もっとじっくりと写真を撮る方がよくて、そのために必要な枚数が絶秒に36枚だったりするのではないか。帰宅後、床屋へ。200円引きになっていた本鮪丼を駅ビル一階の魚屋で買って帰った。鮪をいったん別さらに取り、すし飯だけを人肌程度になるように軽くチンして、そこへ鮪を戻し、ワサビを溶いた醤油をかけまわしてから食べました。暖かいのは今日だけで、明日からはまた寒くなる。

 

12/31。昨日が嘘のような寒い日となる。昨晩深夜までかかって通信面(写真面)を印刷した年賀状に宛名面を印刷する。今年のはじめにいただいた年賀状を捲りながら住所を確認したり、このひとつきほどに届いた喪中はがきを見直したり。11:00頃に近所のポストではなく茅ケ崎郵便局の年賀状用のポストまで投函に行ったが、まぁ私の年賀状は元旦には間に合わないのだろう。指先だけが外に出るタイプの手袋はカメラマン用とうたってあったのを三十年くらい前に買ったものだ。そしてその手袋をして自転車のハンドルを握り漕いでいくと、当たり前のことだけど指先が冷たい。だから少し手袋を脱ぎ掛けのようにして出ている指先も隠れるようにしてみたりするのだった。

 

今年もお世話になりました。ブログを書いた日数が201日だった。これは2008年にこのブログを始めてからいちばん多かったらしい。どうしてそうなったのかはわからないです。

祐天寺

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大学を卒業して入社したメーカー(いまもそのメーカーのサラリーマンです)で、某精密機械製品の機構設計者として図面を描くことが社会人のキャリアスタートだった。同じ機械学科卒の新人は、たとえば全社で50人いて、それがいくつかの事業部に振り分けられる。各事業で設計している製品カテゴリーがたとえば五つあって、そのうちの一つのカテゴリーに電気設計とか機構設計とか分野別の設計室があるなかで当然機構設計の課に配属される。課には、課長、課長代理・・・中堅、若手、新人、それから図面をトレースして仕上げたり青焼きをして配布したり、その他の雑多な事務仕事をする庶務さん(たいてい女性社員だった)がいて、すなわち当たり前の昭和の日本の会社の組織構成で、機械学科出身の新人が50人いても、同じ課に配属される「同期」はひとりかふたりだった。もう40年以上も前だったから、図面は手書きだった。同じ課のいつつくらい年上のOさんが祐天寺のアパートに住んでいた。アパートの部屋へ行ったことはなかったけれど、Oさんに誘われたり影響を受けたりした。日曜日にいちにちヨット(ディンギー)教室に行ってみようと誘われて葉山の海に出てみたり(その後は二度と行かなかった)、スキーに誘われて一度か二度だけ行ってみたり(その後は二度と行かなかった)した。ヨットもスキーもあんまり楽しくなかったのだと思う。きっとうまくなるまでの辛抱とか、人に教わりながらうまくなるというそのコミュニケーションの取り方とか、そういうのが苦手と言うのか、簡単に言えばこどもだったのだろうなぁ。プライドだけ高くて。だけどOさんがあるときにオートバイに乗ることにはまって、免許を取って、ホンダのXL250というオフローダーに乗り始め、その頃に片岡義男ブームで「彼のオートバイ、彼女の島」「スローなブギにしてくれ」などのオートバイが登場する小説も流行っていたことも重なり、わたしも溝の口にあった自動車学校に通って、中型二輪免許を取得した。この二輪免許を取るために自動車学校に通っていた期間のある日にジョン・レノンが射殺される事件があった。このブログにも何度かこのことを書いたかもしれないが、ジョン・レノンが射殺された日かその数日以内の運転練習で派手に(自動車学校内のコースで)転倒したことがあった。ジョンの死がなにか私に精神的な影響を及ぼして、巡り巡って転倒につながった・・・なんてことは普通に考えるとあるわけないが、私自身の転倒の「言い訳」として、ジョンの死があったんじゃないか、と思ったのだろう、そう思ったせいで、こんなことが消えずに思い出せる。あの頃はいつも陰鬱な曇り空だった気がする。熱が出て会社を早退し、駅のホームで電車を待っていたら、鳥の糞が頭の上に落ちてきたり、そんなふんだりけったりなことが重なっていた。仕事が忙しすぎて無理をしたのか急性腸炎になり一週間くらい会社を休み、そのあとお腹を壊しやすくなり、そんな胃腸の弱い感じはその後ずっと二十年くらい続いた。それでもOさんの影響で中型自動二輪免許を取ったから、最初はスズキの次いでホンダの250ccバイクを愛車としていろいろな場所にツーリングに行くようになった。祐天寺というとOさんを、Oさんと言えば上記のようなちょっと陰鬱だった頃と、オートバイのことを思い出す。Oさん自身はXL250で車の脇を抜けているときに、とある車のドアが急に開いた、そこへぶつかって骨折をし、以降はオートバイは止めてしまった。たしか、祐天寺のアパートで自炊はまったくせずシンクは使わないので、シンクに水を張って別のことに使っているんだ、と言っていたが、その「別のこと」が何だったのか。金魚を飼っていたと言っていたか、あるいはどこかでたまたま手に入れたおたまじゃくしを育てていたのだっけ?それともそういう生物部的な話ではなく、水中モーターを使ったなにかの模型を作るのに水を張ったシンクを使っていたという話だったかもしれない。

祐天寺。このOさんの話が1980年代のことだとすると、90年代には祐天寺の駅から少し歩いたところに今もあるカレーの店が大好きな後輩がいて、後輩と一緒に食べに行った。辛さに段階があって、辛さを増していなくても十分に辛くて汗がだらだら流れた。海外の地ビールが五種類くらいメニューに載っていて、そんなのを一本だけ飲みながらカレーを食べた。このカレーの店で辛さが四増しくらいの超激辛を完食できるYくんがいた。彼は電気回路の設計者で、長い休みを取って北米大陸やオーストラリアを何日もかけて自転車で横断したりする。そんなYくんだったが、急に会社を辞めてしまった。噂に聞くところだと、宝くじに当選して億単位のお金が入ったので悠々自適にしているとか。カレー屋さんの帰り道に古本屋があって、そこで「永遠の仔」を仲間三人で買って回し読みをしたのだが、下巻の肝心かなめのクライマックスのところでページが切り取られている本だった。なので、結局その部分を埋め合わせるために新刊書店で立ち読みでしのいだ。そことは別に、祐天寺から中目黒の方に行ったあたりにも古本屋があった。いや、この店はいまもあるかもしれないな。この頃、わたしは尾辻克彦田中小実昌の本を集めていた。そして祐天寺のこの古本屋で尾辻克彦のまだ持っていない本を見つけて買ったことがあった。それがどの本だったのかわからないが、いまも尾辻克彦赤瀬川原平)と田中小実昌の当時集めた本は本棚に並んでいる。手にして読み返すことはほとんどない。だけど読んでは定期的にブックオフなどに売る本として手放すことはない(そうしようか考えたことすらない)。残っている本というのは結局そういう本であって、再読は「可能性として残す」という言い訳のための方便で、ただ思い出を取ってある感じなのかもしれない。

29日、久しぶりの祐天寺で写真同人ニセアカシアのMさんと会い、静岡料理の店に行って3時間半、写真や本や音楽や、ほかの同人の方の話をする。むかでの絵が描かれた無風をむかでと読ませる岐阜の日本酒の新酒をちびちびと飲んだ。静岡おでんや焼津港直送の刺身や、この蕪とルッコラにジャコを振りかけたサラダなんかを食べた。

冬のサーファー

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新しく中古で買ったズームレンズ、と言うのはなにか癖のあるレトロレンズでも高価な大口径単焦点でもなくて、いわゆるカメラとキットを組まれる便利ズームと呼ばれている類のもの。APS-Cセンサーサイズのミラーレスカメラ用。フルフレームサイズのミラーレスと、APS-Cサイズのミラーレスと、1インチセンサーのコンデジと、主に稼働してるのはこの三台で、平日の会社のある日にも必ずバッグに入れてあるのはコンデジで、休日に散歩をするときはその日の気分でカメラを選んでいる感じ。昨日と今日はこの便利ズームを買ったこともありAPS-Cのミラーレスカメラで、これなんか発売したのはたぶん2015年か2016年くらいのカメラだから最新機種のように、瞳とか動物とか電車とかを「被写体認識」して高速にピントを捕獲してサイレントに秒のあいだに何コマも写真が撮れてしまうなんて言うことは無論出来ないけれど、このブログにずっと載せているような写真を撮るわけだから、そういう猛禽類のようなスポーツカーのような研ぎ澄まされた勢いある機能は宝の持ち腐れになってしまい、却って疲れちゃう感じかもしれないな。

海まで歩く。今日はどうやらサーファーにとって良い波が入っているらしい。黒いシルエットになって逆光の海にたくさんのサーファーが浮いていて、良い波を待っている。見ていると、ときどき、うまく波に乗ってすーっと波打ち際まで滑ってくる。そういう良き波はでも次々やって来るわけではない。二名か三名が同じ波を捕まえて、すーっときれいに、いや、ときどきターンなども交える方もいて、滑って来るのを見て、では次のそういう場面を写真に撮ろうかなとカメラを身構えるが、これが意外とそういう波が来ないものらしく、二分か三分待っても、たまたま見たそういう場面が再現されることはなく、撮る方は執念があるわけでなく気まぐれなものだから、もう待つのをやめてしまう。そしてまたとぼとぼと海沿いのサイクリング&ウォーキング用の路を東へと歩く。

荒井由実松任谷にもうなってたかしら?)は「真冬のサーファー」の歌詞で

♪ 真冬のサーファーはまるでカラスの群れのようね ♪

と歌っていて、私はずーっと何十年もこの曲を聴くと曇天の暗い冬の日の海岸を思い浮かべていたが、それはカラスという鳥の持っている印象からだったのか、それとも歌詞のなかに「灰色の風」とあるからなのか。湘南の真冬の海は、西高東低の冬型であればたいていはこんな風に逆光に輝いていて、これだって黒く見えるサーファーたちは、たしかにカラスの群れのようだ。ユーミンが思い描いていた海岸は晴れなのか曇天だったのか?

茅ケ崎市に住んでいても、あるいは2歳から15歳まで平塚市の海の近くに住んでいても、サーフィンはやったことがないし、そもそも泳ぐことも苦手だから、海との付き合いは釣りこそしたけど海の中に入ることなんてなかった。サーファーの方は、テイクオフして波に乗って来るときが爽快なんだろう。それとともに、砂浜からちょっとの場所とはいえ、そもそも足のつかない海の上に一人でいるというだけで、「人が基本的にはほぼほぼ安心に暮らせる生活圏」からはみ出て、ちょっとの恐怖心や普段以上の五感の動員や、そういうことに身をおいている、そこが実はすごいことなのかもしれない、などと想像する。やってないから想像の域を出ない。

そして私は茅ヶ崎駅の方へ海から離れて家へと戻っていく。途中で自家焙煎コーヒースタンドの小さな店内のベンチに腰掛けてコーヒーを飲む。コーヒーを飲む前までは陽射しがあり、なんだか天気予報の言うことと違って汗ばむほどに暖かいなと思う。コーヒーを飲み終えて店を出ると太陽が雲に隠されていて、風で飛ばされてきたのかほんの少しだけだけど雪が舞っていた。するとさっきまで感じていた暖かさは消えて、寒さが急に身に沁みる。指先が冷たくなるからポケットに手を入れると、数日前に何かを買ったときに渡されたレシートをくしゃくしゃに丸めた紙ごみが指に触れる。道に捨てるわけにもいかないし、すぐ忘れてしまうから、こういう紙ごみって何日かあとにもまた指先に触れて、なんだかちょっとだけ滅入ってしまう方向に働くんだよなあ・・・だからせめてポケットから出しておこう、などと思ったりしている。こういうのが些細な出来事なんだろう。

このブログにスターマークを押してくださった若い方のブログを見に行って、そこに紹介されていたtetoという日本のロックバンドの曲をSpotifyで再生し、ワイヤレスイヤホンでずっと聴いていた(いいですね!このバンド)が、右耳のイヤホンがすぐに耳から外れてしまうのは、あのゴムでできた丸っこいイヤホンの装着部位のサイズが私の耳に大きすぎるからなのだろうか。だからときどき抜け落ちる前に右耳にイヤホンをぎゅっと押し込む。そうだな、これは少し緩くなって頻繁に落ちてしまう眼鏡を頻繁に持ち上げるのと似ているな、と思う。

昨晩はこのためにワイヤレスイヤホンとスマホをいまさらながらペアリングしたのだった。最初うまくいかなかったがちゃんと出来た。なにがまずくてうまくいかなくて、なにが良くてちゃんと出来たのか、こういうことって意外にわからないまま、なんとなく出来ている場合がありますね。

 

雨に濡れる

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中山七里著「護られなかった者たちへ」を数日掛けて読んできて、ミステリー小説っていうのは最後に近くなると、読者に明かされていない、掛けられたままの謎を知りたくなるようになっているから、残りページ数と物語の進行具合からなんとなく定まってくる「もうここまで来たら最後まで一気に読み切ってしまいたい」という「閾値」があって、昨晩はその閾値を越えたので、最後まで読み切ったら深夜の1時だった。

朝起きると外には雨が降っている。空気がそれなりに湿っているから、起きて最初に目を開くときに、右目の角膜上皮がドライアイで傷つくことをたいして警戒しなくて大丈夫だった。それでもいつも通り目を開く前にヒアルロン酸ナトリウムの点眼薬を落としつつそっと目を開くのだ。商品名はヒアレインというらしい。ヒアレイン・・・Here Rainから?ここは雨、あるいは、涙は雨(ドライアイの治療のために涙の分泌をうながしここ(角膜)は雨のように涙で覆われる)から?そんなことはなくてヒアルロン酸から取っているんだろうけれど・・・

中古で買ったレンズのワイド側は樽型歪曲収差が写ってしまいます。レンズの補正データをカメラに入れるべくなにかアップロードしなければいけないのかな?でもこれはこれでもういいや・・・とも思ってしまう。

時間は気にしていると遅々として進まず夜はまだまだ長く先にありその間にいろいろと出来る気がするが、時間は気にせずにしばらくいてから時計を見ると思いのほか進んでいて驚いたりがっかりしたりする。

散歩していてふと見つけた街角の小さなパン屋でシベリアを買う。でも夜遅くなってもまだ私は買ってきたシベリアを食べていない。冷蔵庫にしまってしまった。明日の朝に食べるのだろう。そのときには、楽しみにしていたシベリアをいよいよこれから食べるぞ!と思えるのだろうか?むしろ、昨日はノリみたいにして買ってしまったが、いまとなっては「しゃぁない、捨てるのももったいないし、買った以上は食べるしかないか」といった感じになってしまう恐れがあるな。これはシベリアの悲劇だから、そうならないように頑張って食べましょう。

珈琲を飲み、上記の次の本を読み始め、ジャズを聴く。マイルスと、ビル・エバンストゥーツ・シールマンスのと、ジョー・ヘンダーソンホレス・シルバー。外に出たら朝が降っていて、昼間はすっかり雨上がり快晴となっていたのに、この夕方の時刻にはまた雨が強く降っている。カメラをコートの内側に隠して濡れないようにしながら帰り道を急ぐ。背中を丸めて。

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