相模湾越しの丹沢山地

 相模湾越しに鎌倉や藤沢の街(中央からちょっと左の緑は稲村ケ崎)とその向こうに神奈川県北部に横たわる丹沢山地の山々、うっすらと雪化粧しているので山のでこぼこした形がわかりやすい、そういう風景です。先日、所要で車を運転して出かけたときに、少し早く出て葉山町の某所に立ち寄って撮って来ましたが、いやー風が強くて凍えましたね・・・とは言えこの地方にしては寒い朝だったというだけの話です。

 幼児の頃から18歳までは平塚市に住んでいたので学校行事でこの丹沢山地に行くことがたまにありました。丹沢山地でもいちばん南にある大山(だいせん ではなく おおやま と読みます)には高校時代は大山登山の授業?で登らされました。中学でも一回あった気がする。高校一年の夏には同級生だったAくんと二人で大山のさらに尾根続きの塔が岳まで登って下りた夏の日があって、覚えているのは頂上に立った爽快感などよりも、上り坂の辛さと、降りたところで缶ジュースやかき氷をいったいどんだけ水分が抜けていたんだ!って思うくらい大量に飲んだり食べたりしたことかな。でもいまやもう丹沢山地に行くことなんかなくなってしまったな。大山にはケーブルカーもあり中腹の阿夫利神社までは簡単に上がれますが、それでももう二十年か三十年は行ってない。ときどきどこの街だったろうか?恵比寿?目黒?ラーメン屋で「阿夫利」というのを見かけますが、あの店名は大山の阿夫利神社と関係あるのかな?

 たぶん子供の頃に、いわゆる「ふるさとの風景」にあった山というのは、きっとなにか人の成長に強く関与していると思いますね。その山がいつもあり、その山に包まれて育ち、その山があるなかでさまざまな出来事に遭遇して、そして成長した。その頃にはあって当たり前だった山が、たとえばふるさとを離れて遠い町に住むようになったあとに、たまにふるさとに帰るとあたりまえに迎えてくれる、そういうことが起きたときに山と自分の関係が急にわかる、というようなことはただのおセンチな思い込みなのかな?

 さて上の方向からちょっと左に目を動かすと、海の向こうには富士山も見えるのですよ。上の写真を撮った同じ今年の2月にも富士山の写真を撮りましたが、下の写真はあえて違う日、2018年の6月某日の富士山ですが、えっ?6月でも富士山の冠雪は消えていないんだっけ?と思いました。これだけずっと富士山の見えるところに住んでいても、意外とそんなことは覚えていないものですね。で、一応調べてみたら、たしかに6月頃までは雪を被っているのですね。

 

たぶん今シーズン最後の牡蠣フライ

 今日は3月1日でもう弥生に入りましたね、外・・・といっても家の近所ですが・・・を歩いていると、とてもソメイヨシノに似ている桜の木があって、なんという種類なんだろう?もう満開に近づいていてびっくりしました。それから、ときどき住宅地の中に見掛ける、道幅も広く歩道も付いている道路が、ほんの数百メートルで行き止まりになっている、これは宅地開発の計画が途中で頓挫したとか、不動産屋のあいだの意見の相違とか、後から出てきた別の開発計画の犠牲になる、なんていういくつかの理由が想像できますが、そういう行き止まりの立派な道があり、そこの街路樹が白木蓮なのですが(辛夷ではないと思えます)そのうちの日当たりがいちばん良い場所の一本がもう開花をはじめていました。この開花を確認したのは一昨日だから2月28日のこと。その日は住宅街を歩いていると、ときどき沈丁花が香ってきました。

 今日の昼に、そのソメイヨシノに似た花を見たときには、昼食を食べにその先にあるとんかつの店に「牡蠣フライ定食」を食べにいったのです。冬のあいだにそのSというとんかつ屋と、隣の平塚市にある、やっぱり頭にSが付くカレーの店に行き、とんかつ屋では牡蠣フライ定食を、カレーの店では季節限定牡蠣カレーを、それぞれ最低一回は食べるのがずっと冬の個人的風物詩のようなことなのですが、今年は今日までどちらも食べていなかった。そこで昼食にせめてとんかつのSの牡蠣フライ定食だけでも牡蠣の食べ収めにしておこうと思ったのです。五個のうち二個はとんかつソースで、二個はタルタルソースで、ひとつはソースを付けずに食べてきました。

 ソメイヨシノに似た花を見つけたときはとんかつ屋への往路で、木を間近に見ようと横断歩道を渡って寄り道をしてスマホで写真を撮りました。些細なことだけど、渡って花をみるか、それは帰り道にしてまずはとんかつ屋に行き空腹を満たすかをちょっと迷いました。でも往路に寄り道をした。寄り道ったってほんの1分かそこらの話です。牡蠣フライを食べ終わり、美味しかったけれど、揚げ物は腹にもたれるなぁ・・・としのせいだよなあ・・・と思いながら店の外に出ると、来るときには晴れ渡っていた空に雲が出てきていて、ちょうど太陽が隠されていた。ソメイヨシノみたいな(でも時期的に考えてソメイヨシノじゃない)桜の花を来るときに見ておいてよかったなとちらっと思う。人の心で思っていることなんて、こんなふうなちらっとちらっと思うことの積み重ねばかりなんだろうと思います。

 JR東日本内の東海道線・東京ー熱海の主要駅でいえば、東京・川崎・横浜・平塚・小田原・熱海あたりかな、これならば関東に居住ではない人も知っている地名だと思いますが、その横浜と平塚のあいだは、順に横浜・戸塚・大船・藤沢・辻堂・茅ケ崎・平塚と続きます。もしかすると平塚より藤沢の方が知名度が高いかもしれませんね。サッカー日本代表の現キャプテンのリヴァプール所属の遠藤航選手は上記の駅でいえば横浜市の戸塚出身で、平塚市を本拠地とする湘南ベルマーレのユースからトップチームへ、浦和レッズを経由して、ベルギーからドイツへ、いまはイングランドへと駆け上がって行きました。あるいは茅ケ崎市は、まさに私が住んでいる市ですが、サザンの桑田佳祐加山雄三の出身地で、駅に電車が停まるとサザンの希望の轍のメロディーが流れるし、駅前から海に向かう正面のバス通りは加山雄三通りといい、斜め右の海水浴場へ向かう道はサザン通りと呼ばれます。先日、上記の駅名でいうと辻堂駅のすぐ近くにあるモールにあるURBAN RESEARCH DOORSに行き、黒の襟付きカーディガンを買いました。新しい服を買うのは、それだけでちょっとうきうきするものです。いつ着ようかな?と思ったりしますね。

 写真は上記の白木蓮の花が咲いていたと書いた2月28日の夕方に茅ケ崎中央公園で撮った写真でして、以前もこのブログに書いたけれど、だいぶ前、理髪店で散髪しているときに隣の席に来ていた客(最近に茅ケ崎に越してきたばかりだがこの街は気に入らないという人)が、遊具も売店もアトラクションもないつまらないただの公園、とこきおろしていた公園ですが、遊具も売店もアトラクションもない素晴らしい公園だと思います。この地面の緑、芝かな?それともシロツメクサなどの雑草かな?に大きな欅(らしき)木の影が伸びていて、集まった子供たちの遊ぶ声がたくさん聞こえる・・・この写真には写っていない右側にとくに大勢子供がいてボール遊びをしていました・・・ほのぼの、というのはこういう早春の夕暮れに在るものなのだなと思いました。そして昔と変わらない子供たちの放課後の遊び方がちゃんと出来る街は誇らしいですね。

 聞いている音楽は、前回か前々回にも書きましたが、若いフォークロックバンドのローラ・デイ・ロマンスをいまだによく聴いています。たとえば前回か前々回にも書いた「ウィノナ・ライダー」の歌詞は ♪ 公園 悲しみにさよなら やけに残った乳白色の思いが 味気のない未来の色と混ざって ただ観てるだけで幸せ 傷ついたウィノナライダー 僕らはまだ 仮初にそう歌った 磨いたレンズが 君の姿を映した こんな日には 環状線が運んだ寂しい音楽 ♪ ですが、雰囲気が伝わる、でもよく判らない感じ、もどかしい感じ・・・

とりとめもない

 子供の頃、というのは小学校の低学年の頃だったのかな、冬なのに妙に暖かく風のある日・・・今考えるとそれは春一番の日かもしれない・・・そういう日には、いつもと違って友だちとは遊びたくなくて、一人でとくにこれをやると決めないまま、ただ屋外にいたかった、そんなことを覚えています。だからなのか、そういう個性なのか、いまも一人の時間も好きだし、一人旅もするし、私ではない誰かにそういう気持ちが起きているのなら、好きにするのがいいよ、と思っている。行くと言っていた飲み会に行くのが急に面倒になり、なんやかや理由を捻りだしては欠席してしまい、家で本を読んだりする。 

 月の満ち欠けが早い感じの今日この頃。上のエピソードよりもう少し年を経て、中学の頃には、以前にもこのブログに書いた気もする、しかも何回も、月がいっつもこっちに同じ面しか向けていないのは裏面でなにかが行われているからに違いないと思い始めて、そうしたら自分の気持ちに収拾がつかないくらいの恐怖が数日続いた。裏面で準備されていることが行動に移ると、この地球の人類が滅ぼされるんじゃないか、と思ったのだ。

 春野菜の天ぷらってこの季節になるととっても食べたくなる。菜の花、ふきのとう、たらのめ・・・そういうのの天ぷら。そして、必ずしもというかいつもそれがなかなか叶わない。てんや頼み(笑)

 そうやって春に向かって季節が進みます。いつのまにか気に入っている若いバンドLaura day romanceのウィノナライダーと言う曲の歌詞が気になっているのも今日この頃のこと。

 写真の一番左のビルは60年代に建てられたビルですが、そんなことは帰宅してから調べるわけで、歩いているときは、おっ!かっこいいな、たぶん60年代のビルだな、と思ったりする。でも、ではなにを基準に自分がそう判断しているのか、そのアルゴリズムが自分でもよくわからない。

 以上、とりとめもない今日この頃のことです。

どうしてここに

 雨の木曜日。天気予報によるとこのあとも快晴の日は少なく、雨や曇りが多そうです。だんだん春に向かっているということでしょうか。

 上の写真は数年前の夏に撮ってありました。別段なんの面白みもない街の道路の写真・・・なのかな?この写真の右側に交差点があって、赤信号でミニバイクが停車している、ちょっと見るとそう思いますが、ミニバイクの向こうのワンボックスのタイヤは短いだろうシャッター速度のあいだにも少しぶれていて回っている、すなわち右に向かって動いている。だから右側フレーム外の信号は青なんじゃないか。ではミニバイクはなんで悠然と停まっているのか、なぜ跨った男性はハンドルに手すら持って行っていないのか?そう思いしげしげと見ると、なんでこの位置に停まっているのでしょうか?信号待ちの列に停まっているわけでもない。信号待ちで停まって、前方にいた車が動き出して画面外に消えたのに、それに気が付かずにぼーっとここに停車し続けているのか?男性は、でも、例えば手元のスマホを見て前が進んだことに気付いていない・・・ということもないですね、ちゃんと前を見ているし。こんなことに気が付くと、どうでもいいようなつまんない写真が、急に気になりだします。

 最近読み終わった本は一穂ミチの「光のところにいてね」です。昨年、文春文庫の「現代の短編小説セレクション2023」を読んだ中にこの作家の短編があり、面白かったのでアマゾンでこの本を買いました(程度のよい古本で)。あらすじは書かないけど、人生が一人で進むものとしても、同行二人であれば、そこにいろいろな感情が生まれる、それが大きな意味の愛の原点だとすると、その「一例」をピュアに示しているってことだろうか。

 

コロナの頃

 新型コロナウイルスが猛威を振るっていた頃のことを「コロナの頃」と言えば通じるが、これはいつからいつまでですか?2020年の春、3月頃から、五類になった2023年の5月までの3年間なのかな。では私が罹患した2023年の7月下旬~8月上旬は五類以降だったから「コロナの頃」じゃなかったのかといえば、そんなことはなくて、2024年の現在と比較すると、まだまだ脅威だった。実際いちばんひどかったのはいちにちかふつかだったけれど、きつかった。いや、いまでもコロナに罹患するとけっこう厳しいんだろうな。

 最近はカメラを持って街を歩いても、いわゆる街角スナップ写真で、自分が気に入る写真が写る率も実数もずいぶん低下してしまいました。街を歩いていて、視線をあちこち振りながら、森山大道さんは「目はレーダーのように」と言っていたが、ここと思うところでシャッターを押す。速射はデジタルカメラになってAEもAFも手振れ補正もずいぶん進化したし、ISO感度を上げることも容易だから、ずいぶん技術的なところは機械任せで大丈夫になった。残るはどこを撮ろうと思うか、そこにどう肉薄するか、いつシャッターを押すか(大抵は撮ろうと思った瞬間になるべく早く押す方がいいんだろう)、なんだけれど、わたしはノーファインダーも多用しながら、画面内の「構図」をじっくり作ることは、まぁ上の写真のようにその時間的余裕があるときはファインダーを覗くけれども、とにかくじっくり作ることは街角スナップにおいては稀です。そういう撮り方なのに、以前と比べると全然ダメ。街の「見方」が衰えて、面白いというのか、まぁここではそうしよう、面白い場面を見付けたり見極めたりすることが下手になったのか?それとも街で、そういう場面が起きる確率や回数が減ってしまったのか?肖像権問題もあるから、上の写真のように人をシルエットもしくはシルエットになっていなくても後ろ姿、あるいは点景で大勢の方がいてしかもブログに使うときには顔だけ取り出してガウスぼかしを付与したり、というように扱うことに慣れた、というかそう扱うという規定が知らず知らずに自分に出来ていて、それが気に入る写真の減少になっているのかな。もしも街の側にも原因があるのなら「コロナ後」になり、コロナとは関係ないいろんな「所作」にもコロナ的に「こうあるべき」「こうすべき」という規約が、正義感一本やりみたいな論調で暮らしを覆ってしまい、街がそのぶんつまんなくなったってことおあるかもしれない。とかなんとかこんな風に肖像権や被写体側のせいにすることも出来るけれど、実際はやっぱり写真を撮るうえでの「見つける力」「反射神経」のようなことが低下しているに違いない。

 それで最近の写真に使える写真があまりない気がするから、HDDの中へタイムトラベルのように昔撮った写真を見に行く。上の写真も2021年の写真だけど、もっとまえ、十年くらい前の写真はより面白く見える。

 ところで「コロナの頃」はステイホームとか、外に出るのは家族と、または一人で、などとよく言われていて、家にずっといると身体を動かさなくなり不健康だからとたとえばNHKTVでもいつもより筋肉体操的なのが増えていたんじゃないか。そして「コロナの頃」に撮った写真を見てつくづく思うのは、なんだそんな風に言われていたがゆえに、せっせせっせと、万歩計を見ながら毎日ちゃんと「ひとりで」歩いていて、だから家の近所のスナップがものすごく多いんだけど、それはともかく、実は「コロナの頃」の方が、いまよりよほど健康的に運動をしていたんじゃないか?ということです。これは私の個人的なことですよ。

 いまは在宅勤務の日は、一歩も外に出ない日もあり、それなのに「コロナの頃」のように始業前とか終業後に歩いてこようなど露ほど思わなくなってしまい、そういう日の歩数は数百歩足らずじゃないかな。私に関して言えば、だから「コロナの頃」の方がよほど健康的でしたね。飲み会もなかったし、外食もなかったし。

 写真の山影、いちばん奥は富士山、その一つ手前が箱根山、それよりさらに近いところは神奈川県の中郡あたりの丘陵地帯です。

この町に住む理由

 建国記念の日の振り替えで休日となった月曜日。相模湾のど真ん中で太平洋に注いでいる相模川茅ケ崎市平塚市の境界になっていて、その茅ケ崎市側に行ってみる。午前9:30頃。この写真の場所に着くほんの数分前に、この写真の右手後方には大きなゴルフ練習場(打ちっぱなし場)があり、その付近を歩いていたら、上空にたくさんのトンビが飛んでいて、私を狙って急降下してきて掴まれたり噛まれたりしそうな剣呑な雰囲気まで感じてしまった。えっ?鳥の目から見ると今朝の私はどこか体力気力が弱っていて、格好の食べ物にでも見えるのかな?と思い少しぞっとした。

 このあと、真っ直ぐ突き当たりまで歩くともうそこは河口で目の前は海原、そこから左折して海岸に沿ってずっと歩く遊歩道(自転車も可)が東へと続いている。そこも歩きました。遊歩道は海面より少し高い位置にあるから、広く海が見渡せます。日差しはもうすっかり春のようで海面にきらきらと反射している。風はないけれどそこそこの波が入って来ていて、黒いウェットスーツを着たサーファーたちの誰かが波を捕まえて乗ったり、捕まえそこなってあきらめる。例えば10人サーファーがいるとしてひとつのいい波にトライするのは2人くらいなんだけど、あれはボードに腹這いになりながら波を待っているその空間でお互いに場所やその他の情報を認識して、誰が乗る番、のような暗黙の了解があるんですかね?

 ジョギングの人と犬を連れて散歩に来た人、投げ釣りの人、そういう人たちがたまにいる。そういう風に見えているものを言葉にして確認しているだけで、ただ歩いている。

 犬って散歩をするためのきっかけ、すなわち動機なのか。それとも犬によって散歩をすることが必須にさせられたわけで、それまでは散歩をすることなどなかったのに、なのか。ま、どっちでも構わない気もするが、毎日犬を連れて海まで来ている人たちに、いつの日か「否応なく」もたらされる(気づいたらもたらされていた)何かがあって、それはきっと宝物のように良いこと・・・のような気がする。たまたま住んでいる地方に××が良く獲れるから、否応なくそれを食べ続けていたら、総じて身体がいつまでも元気だった、というようなことがあるが、この××同様な感じで、犬の効能がありそうだ。

 私はどうしてこの町に住んでいるのかな?とサーファーを見て思う。サーフィンはしないしこれからもしようとは思いもしない、犬は飼う気もないしそもそもマンションの規約で飼うことはできない、この町に仲のいい友人が大勢いるという訳でもない。バブル期のマンションは需要過多で横浜や湘南の新築マンションを片っ端から申し込んだが結果は外れ続け、いまも住んでいるマンションしか当たらなかった、というのが理由のひとつだけれど、でも海のそばに住んでいたかったんだろう。ということはこうやって海を見ながら散歩してときどき写真を撮るというこのことがまさに、この町に住んでいる理由なんだろう。

 せいぜいこのくらいのことは考えたかもしれない。

明日に架ける橋

 1970年代前半の話です。中学の音楽の授業で、音楽の先生の・・・いま思い出したのですが「あだな」が渋ちん・・・渋谷か渋井か渋川(敬称略)あるいはそれ以外の渋なんとかさんだったのかまで思い出せませんが・・・その渋ちんが、今日は音楽を鑑賞しましょう、といって音楽室にあったステレオ装置でLPレコードを聴かせてくれました。(ところでいまの音楽の授業ではどういうやり方で曲を聴くんだろう?)

 音楽の授業でクラシック音楽や合唱曲や、もしかすると伝統的な音楽や、世界のいろんな場所の音楽をみなで聴くことは、いかにも授業の一環という感じがするのですが、このときに渋ちんが聞かせてくれたのは、当時はまさに洋楽のヒットチャートの常連だったサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」でした。アート・ガーファンクルのきれいな高い声にすっかり魅了されたものですよ。

 渋ちんはテストでもサービス問題があって、いまあなたが一番好きな曲をなんでもいいから書きなさい、というものだった。テスト時間の前半でほとんどの問題に答えてしまっていた私は・・・当時はブラバンの部長で音楽は得意だったのです(いまは声が枯れて高い声が出なくなり、鼻歌でさえうまく歌えませんが)・・・残りの時間をずっとなにを書こうか悩んでいました。この話もこのブログを16年も続けているときっと過去のいつかに書いた気がしますが、結局答案用紙に書いたのはその当時チャートの上位を争っていたシカゴというロックバンドの「クエスチョンズ67/68」。こういうのって書いたことがきっかけになって、そのとき本当はその曲が心底好きだったわけでもなかっただろうに、その後は「長い夜」「サタデイ・イン・ザ・パーク」とともにずっと覚えているシカゴの曲になりましたね。高校に入ったころにはじめて買った洋楽のLPレコードはフィフス・ディメンションだったけれど、その次あたりに買ったのがシカゴのベスト盤だったのも、このとき書いた回答がきっかけだったんだと思います。

 上に「シカゴというロックバンド」と書いたのは、わたしと同世代の方々、もう少しあとの世代の方々も、シカゴというバンドのことは知っているのが当たり前だったんだけど、いまや通じない人も大勢いるだろうと思って書きました。というのも先日、わたしより二十くらい年下の同僚がプレイヤーを買ってLPを聴いてみたと言っていたので、うちにLPがたくさん残っているよ、という話から、70年代80年代にはいまほどすぐにコンサートのチケットが売り切れるほどコンサートに行くという娯楽が一般的ではなかったのか発売後に街のプレイガイドに行けば有名なバンドのチケットも買えたしなんなら当日券だって大抵あったんだよ、ということを言いました。すると同僚が「たとえばどんなバンド?」と聞くから、最初に浮かんだ「イーグルス」と答えたら、「だれですか?それ」と返されたのですね。そういうことなんだな、サイモンとガーファンクルもだいぶ知らない人が増えているんだろう。きっとビートルズストーンズは知っていても、シカゴやイーグルスレッド・ツェッペリンやクイーン、ましてやザ・バンドとかイエスとかフリートウッドマックとか、適当に分野もごちゃごちゃに思いつくままに書いていますが、世代的に知っていて当たり前のバンドを実はもう誰も知らないと思った方がいいんですね。クイーンはさすがにまだみなさん知っているかな。大好きなザ・バンドはガース・ハドソンだけが存命で、とうとうロビーも昨年亡くなってしまった。まぁそう考えるとストーンズはお化けですね。

 というように「明日に架ける橋」→「渋ちんのテスト」→「シカゴ」→「LPレコード」→「忘れられて行くバンド」→「ロビー・ロバートソンの訃報」と思いつくままに書いていますが、そもそもなんで最初に「明日に架ける橋」のことを書いたのか?これは本日にNHKテレビで放送していた「サラメシ」で、明石大橋だったかな、橋梁の建材の劣化度を点検する仕事の人が取材されていて、それを見ていたらバックにサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」が流れたということがきっかけでした。なんだかこの曲を耳にする回数がとても減っていて、久しぶりに聴いた気がしました。

 今年の春はたとえば梅の開花も一から二週間早いと聞きました(読んだのかな)。茅ケ崎市文化財に指定されている氷室家住宅の庭は氷室椿庭園になっていて、すごくたくさんの椿が植えられています。さすがに花が盛りとなるのは例年が3月中旬だから、早いとは言っても2月上旬ではまだそれほどは咲いていませんでしたが、中には紅侘助と木札に書いてあった椿などはまさに花の盛りだった。上の写真は紅侘助ではなくて、名前までいちいち憶えてないのですが、こんな風にひとつだけ赤い花が緑の中に咲いていました。来週はとっても暖かくなるそうです。