子供のころ、父親に連れられて、怪獣映画や若大将シリーズやらを(いまはないのだろうな)平塚市見附町の東宝劇場などに観にいったときに、映画を観ることはもちろん楽しかったものの、映画館を出ると、映画館に入ったときに比べて思ったよりずっと時間が進んでいてあたりがすっかり暮れ色に染まっていたり、季節や時間によってはもう夜になっていたりして、そのときになんだか狐につままれたような淋しい感じ(時間を損したような感じ)を覚えたものだった。映画という非現実の物語にどっぷりと浸かっていたから、現実に戻されたときにそういう気分になっていたのかもしれないな。
今日は久々にハリウッドのSF映画「地球が静止する日」というのを見に行った。夫婦どちらかが50歳以上の夫婦は一人千円という割引が使えた。不況のせいなのか、ほかにもいくつも上映しているシネコンであるのにとても空いていた。
SF映画にとってコンピューターグラフィック技術とか特撮技術が進化して、よりリアリティがあるような映像が作れるようになってきたというここ数十年の結果から見直してみて、それは良いことだったのだろうかね?そもそもSFとかファンタジーとか言うのは、人の想像力に訴える未知や空想がポイントなのだから、それを映像として限定して見せてしまうということも、正しいのかな?まあ、結局のところはこけおどしの映像とチープなストーリィではもう人はだませない訳だろうから。とか書くと全然ダメだったみたいな感じがあるけれど、まあそこそこではありました。
ついひと月くらい前にVHSのビデオテープに録画してあったのを再生してみたウルトラQの「鳥を見た」なんかは、もう操り人形のワイヤーが見えてしまうような今の時代からするとずいぶんと稚拙な特撮ではあっても、何か不安感が底流にちゃんと流れるような感じが持てたよなあ。特撮が稚拙なことを隠すために、場面が夜だったり、巨大化する怪獣が影だったりするから、結果として「詳細は見せないので想像してね」的になっていてそこが不安感の源になっているのかも。
地球が静止する日はリメイクらしいので、むかしの作品はどんなだったのかちょっと興味が沸きました。それにしても相変わらずハリウッド映画は最初から最後までBGMが流れっぱなしで、あれは厚化粧みたいな感じで、安直に観客の気持ちをコントロールするようで(されているようで)不快だ。
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映画のあと、床屋1850円。古本屋みづほ書店で山田稔著「太陽の門をくぐって」500円。昨日は冬至だった。日が短い。最初に書いたように今でも映画が終わって外に出ると時間の流れに取り残されていたような気分になっている。西日は建物の間を抜けて町のところどころに、ぽっぽっと陽だまりを作っている。陽だまりを数えるようにして歩いていくと、その陽だまりはどんどん薄く、数も少なくなっていく。