柚子

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人づてに面白そうだと教えてもらったので、学芸大学の書店+ギャラリーBook&Sonsに木村和平写真展「あたらしい窓」を観に行く。そのあと学芸大学の駅の周りを少しだけぶらぶらして、それだけで帰宅した。昨年暮れ、学芸大学の居酒屋「件」で私も所属している写真同人ニセアカシアの同人、と言っても全同人は計5人でその日に集まれたのは3人だったが、忘年会をやった。そのひとつきかふたつきあとから新型コロナウイルスの「禍」になるとは思いもせずに。居酒屋「件」は「くだん」と読む。くだんは内田百閒の小説にもなっている。店を選ぶときにはそういうちょっとしたことが後押しになることもある。ぶらぶらしたときにはその居酒屋の前も通った。いまは知っている店(以前行ったことがある店)が無事にまだ営業を続けているのを見るだけでちょっとほっとする。ついでに言うと、これはもう30年近く前に会社仲間と二度か三度か行ったことがある中華料理「味味」も健在だった。

話を戻して、木村和平写真展、その口上は

「近い存在であるはずのひとが、動物が、風景が、ふいに遠く感じることがある。それは寂しさや不確かさ、そして触れがたさとなって、短い風のように目の前に現れる。いくら被写体とカメラの距離が近くても、ひとがこちらに笑いかけていても、遠いときはとことん遠い。間に窓があるみたいに、見えるのに触れない。

写真はそれを静かに、そして鮮明に提示してくれるものだが、理解につながるかは別の話だ。わからないことをわからないままにできるとき、私はとても落ち着いている。」

と言う文章から始まっている。

人が人を遠く感じるときは、その相手の人に対してなにか期待や依存や願望があって、それが、その切実な思いが伝わっていないのではないか?こちらがこんなに迷っているのに知らぬ存ぜぬで勝手に(わたしのいない生を、時間を)楽しんでいるのではないか、というような不安や怖さを覚えているのか。それが全部ではないにせよ、そういうときもあるだろう。写真にはそういう撮り手の気分が、そこに笑顔の相手が被写体として立っていても、(遠いと感じている気持ちが)写るものだろうか。そのあとに書かれている理解のはなしはよくわからない。ただ、文脈から離れて、最後の文章だけを読んで思うことは「わからないままで良しとして落ち着ける」と言うことは相当の覚悟もしくは泰然とした大きさが必要なのではないか、と言うことだ。水たまりに石を落としたときと、大海に石を投げたときで、全体に及ぼす影響はぜんぜん違う。泰然とは広すぎて鈍感な状態かもしれず、それはそれで良いことだけではないだろう。

展示された写真は素敵だった。素敵なんて単語はよく判らないが、「いい」とか「かっこいい」とか「きれい」とかではなく、素敵だった。そして、たしかに展示された写真には、戸惑いのようなことも写っていたかもしれない。緊張かもしれない。もうなんていうかこれはどうしようもなく、個性のように、ある人は早々に振り落とせるけれど、ある人にはずっと始終、落とせない緊張が付きまとっているような感じ。その個性を、この人の家族や友人は、相互に補い合いたいような感じ。

 そして、この写真家のこの展示に合わせて発刊された写真集ではなくてモノクロの写真集「灯台」と言うのを買って来た。陽だまりがたくさん写っている。あるいは陽がスポットのように当たった場所の写真が多くある。実態のない温もりの塊を、心は安寧を求めて欲している・・・といったことが最初は浮かぶのだが、何回も写真を見直しているうちに、だんだんとその陽の光の塊には暴力にも変わりうる力があるように見えてきて、安寧の裏に怖さも秘めているように見えてきた。こんな熱い湯を注いだらもしかしたらこのガラスのコップは割れて弾けてしまうかもしれないぞ。そういう怖さが迫ってもくるのだった。

村上春樹のデビュー作の講談社文庫1982年発刊版の97-98ページに主人公がむかし付き合っていた女性の写った写真のことが書かれている。

「僕は彼女の写真を一枚だけ持っている。裏に日付がメモしてあり、それは1963年8月となっている。ケネディー大統領が頭を撃ち抜かれた年だ。彼女は何処かの避暑地らしい海岸の防波堤に座り、少し居心地悪そうに微笑んでいる。髪はジーン・セバーグ風に短かく刈り込み(どちらかというとその髪型は僕にアウシュビッツを連想させたのだが)、赤いギンガムの裾の長いワンピースを着ている。彼女は幾らか不器用そうに見え、そして美しかった。それは見た人の心の中の最もデリケートな部分にまで突き通ってしまいそうな美しさだった。」

映画「風の歌を聴け」ではこの写真が映像として出てくるのではなかったか。映画は小説を読んだときに感じる、ちょっとした軽快さや乾いた感じ、でもよくよく読むと、実は諦めとどんよりとした感じの支配した暗い気分、の後者ばかりを感じるような出来だったと記憶しているが(それはそれで悪くはない)、なぜかその映画に出てきた一枚のモノクロ写真だけは微かな懐かしさと繊細さと憧れを感じるようだったと思う。いやこれね、不確かな記憶だからそもそも映画「風の歌を聴け」に写真なんか写らなかったのかもしれないけれど・・・

写真集「灯台」を捲っていてそんなことを思い出した。