メカスの映画

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上野の東京都美術館ではゴッホ展をやっているけれど、今日はWalls&Bridges~壁は橋になる~展でジョナス・メカス増山たづ子の展示を観てきた。メカスのコーナーでは展示作品と同時に延々とホームムービーで撮った極パーソナルな映像をつないだ映画を流していた。解説によると4時間超える大作だそうだが、ここで流していたのが全編だったのか短縮版なのかは不明です。でも一時間くらいは観ていたと思うけど、その中では同じ場面に戻ることはなかった気がする。この映画は「動画撮影でなければOK」とあったので、何枚か画面を静止画撮影してみました。その写真をベースにまずトリミングをして、ついでカラーを放棄してからセピア風の色にして、少しトーンカーヴとノイズを調整したのが上の二枚です。音楽でいえば過去作品をサンプリングしているってことに近いだろうか。あるいはボルヘスの短編に一字一句違わない誰かの小説をそのまま書き写したようなのがありましたが・・・(あれは誰かの小説と一字一句違わない小説が偶然に創作される可能性が書いてあったんだっけ?)。そんな行為ですかね?ちょっとうしろめたい感は否めない。

メカスの映画は次々とファミリーの動画が早いテンポで切り替わり、画質はホームムービーらしく悪い。メカスが解説するような声とか音楽とか雑音めいたものとか、音もある。だけどこの映画を観ているうちにトヨダヒトシさんのスライドショー、静止画で無音(鑑賞場所の環境音は聞こえる)を観ているときと同じような、そこには極私的な暮らしが映っているだけなのに、それなのに自分に転嫁されるようにしてささやかな喜怒哀楽を伴いつつこちらの極私的な記憶との共鳴が起きるような感じが起きるのだった。

この動画作品とは別にフイルムからコマを選んでプリントして展示された作品はそこにフイルムの3コマ分が同時にプリントされているのだが、その三コマが一コマと二コマに分かれてそのあいだにシーン転換があったところが多く選ばれている感じだ。三コマとも同じ場面の作品もあるものの。8mmとか16mmの動画フイルムって記録したい場面が未来に来ることを「期待して」撮り始め、それがうまくいくか、そういう場面が来ないのであきらめて一旦撮影をやめるか、いずれにせよ、その動画撮影のワンカットが終わるときにはもう一番撮りたいところではないから終える。一番撮りたいところではないから終わったシーンの最後の一コマか二コマと、期待して撮り始めるということはまだ撮りたいピークの場面ではなく撮り始めらえた最初の一コマか二コマ、そこが選ばれてプリントされているから、この選択はますますアンチクライマックスだろう。そしてそういうのがホームムービーで記録された日々の日記のような動画にとっては、実は後日には一番大事になってくるところなのかもしれない。

そんなことを思いながら会場をぐるぐると回りました。