かもしれない

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 写真は鎌倉市大船(最寄り駅はJR東海道線大船駅)近くの「大船市場」のあたり。大船駅西口の前に広がる商店街はいつも買い物客でごった返していて庶民の台所って感じがする。

 話が変わりますが、昨日「コマーシャル・フォト」と言うCMクリエートなどを仕事にしている人向けの雑誌の最新号をたまたま手にして読んでいたら、2021年のCMベスト10と言う記事があり、NO1はカロリーメイトの「見えないもの」編とあったのでYOUTUBEでそのCMというのかCFですかね?を見てみた。コロナ禍の受験生と遠隔授業をしながら生徒を苦境の中でも導こうとする高校教師の掌編映画のようなCF。そのなかで、

「うまく行かないときにそれでも続ける努力を底力って言うんだよ」

と、教師はビデオカメラに向かって、ちょっと照れる感じで、授業の最後に意を決するようにして、そう言う。ちょっとぐっと来ました。

 四か月に一度、歯をチェックして清掃してもらっている。先日、その案内葉書が来ていたので、今日の夕方に行く。一時間かけて歯周ポケットの深さを測り、前回との数字比較をしながら、今の歯磨きやフロスの習慣で良いか、改善すべきところはなにかの説明を受ける。今回はいまのままを続ければ良いとわかった。そして四か月のあいだに着いた汚れや歯石を除去してもらう。前回までは二回に分けていたが、今回は約一時間掛かったが、一回で済んだ。

 清掃をしてくださる歯科衛生士の方と作業の合間に、30年前のこのあたり(歯医者は私の家のすぐそば)がどんなだったのかの思い出話をする。いまと同じバス道りはあるけど畑ばかりで建物はあまりなかった、と言う話。あぁ、そういえば当時、ブローニーフイルムの6×4.5cmの範囲で写真が写るフジのカメラで近くのバス停留所でバスを待っている人のいる光景のスナップを撮ったことを思い出す。撮ったことを思い出すのではなく、撮ってプリントしたその写真に写っている光景(静止画)のことを思い出す。写真はその写真を一つの光景の事例としてあり、あることで写真には残されていない写真に隣接していた他の光景まで思い出させる力なんか無く、写真だけが単独で過去の光景の証明として今ここに示されるにすぎない。そんな風に思うことは、そうなんだろうなという予感はあっても、なんとなく認めたくない感じがずっとあるのだが、でもそうなのだろう。

 いや、すべての写真がそうではなく、なかには写真と言う一つの静止画をきっかけにそのときのことが動画として、あるいは、撮ってない写真(残っている写真以外の静止画)として、頭の中にありありと思い出せる入り口の役目を果たせることがあるのかもしれない。

 写真は、今と「忘れてしまった昔」をつなぐところに置かれたひとつの手掛かりで、そこに手を掛けて「忘れた昔」を「思い出した昔」に出来る、そういう効能が写真にあることを期待して、たしかにそういう場合もあるに違いない。

 でもそこが手掛かりではなく、思い出すことなどひとつもなく、ただ写真があるからそこに写った静止画のみが(モノクロ写真であればモノクロとして)そのときの記憶のように思えているだけで、本当はその写真を撮ったときのことを覚えているのではなく、写真に写っていた像を覚えているだけなのかもしれない。むしろ写真があることで、手掛かりどころかそれで満足していて、それ以上のことを忘却しているかもしれない。

 バス停を撮った写真の画面がモノクロで記憶されていて、それだけのことで、そこから色が付いたり写真の画角に写っていないはみ出した隣りにあったものも頭の中では思い出していたり、そこにバスが来て人々が乗り込みバスが去り人のいない殺風景が現れれたり。そう言う視覚記憶の拡張のための入り口の一枚なんかならず、なにも拡張できない、少なくとも視覚記憶としてはそれ以上拡張できない、静止画でありモノクロであることに閉じ込められた状態のままのことがほとんどじゃないだろうか。

 ・・・かもしれない、ばかり。そういえば、以前に、写真を撮る人と撮らない人の違いは、視覚の、すなわち映像の形式での記憶を覚えていられる能力によって分けられていて、覚えることが苦手な人が写真を撮る人になっていくんじゃないか?とか思ったこともありました。そうだとすると写真を撮る人は写真すら撮らなかったむかしの視覚の記憶はほとんど持てず、そこを補完するのが写真行為と写真そのものが、覚えていられないことの代償として使われている。

 極論ですけどね。たぶん。