写真は思いを馳せる起点

 一枚の写真。露光した例えば1/125秒のあいだの光が固定した静止画を作り、過去になったその化石のように固定された瞬間の光景を、後日に眺めると、その静止画を起点にして、その前後に流れた時間に思いを馳せる。風の冷たさや強さ、潮の香り、波の音。風に負けないような声で、あなたが何かを話している。あるいは、風に飛ぶ砂粒が目に入らないように目を瞑って東へ歩く、私はひとり。もうすぐ陽が沈み、そして周りはだんだん暗くなるだろう。そんなふうに「思いを馳せる」起点となる写真は、こんな風に焦点がぼけているからダメだとか、少しでも高画質の方がいいとか、そんなことではないのだろうな。

 そして、大抵の場合、写真を見るとは、過去のいつかを「思い出す」方向の力が強いんじゃないだろうか。

 今年の3月になぜかスマホで撮ってあった海辺の写真です。それをなんとなく順番に見て行ったら、ピントのぼけた写真があった。その写真をスマホに標準インストゥールされていた画像処理ソフトでちょっとだけ補正した。

 海辺の市に住んでいるから、毎日海へ行くわけではないけれど、ひとつきに1~3回くらいは海に行く。行けばサーファーでもないのに、波の状態を見るだろう。海へいくときは、大抵・・・というか99%は一人だ。そして、わくわくしたり、目的が明確だったりして海へと向かうわけではもうない。むしろ、とくに行きたいところがないから、なんとなく海へ、ということばかりだろう。サーフィンや釣りをするわけでもなく、写真を撮るとは行っても、海を撮ることに意気込んでいるわけもなく、ただ「いつでも写真を撮る」から「海でも撮る」というだけの話だ。そして新しく駐車場が出来たな、とか、変化を認識する。

 そんな風に行った海で撮ったスマホ写真はぴんぼけで、そこからなにに「思いを馳せる」というのか。と、上述したことを否定してみようか。。。