もう昨日になったサーフィン写真

 5月9日は雨模様。写真は昨日5/8の快晴の日曜日の茅ケ崎海岸です。天気予報によれば、今降っている雨が明日の未明には止んで、明日は晴天が望めるものの、その後はしばらくずっと雨が続くらしい。こんな写真を撮ることが出来る日もしばらくはないのかもしれない。ちょっと波の先端の白い筋が綺麗に写ったので載せておきます。

 このブログを書いている自室のデスクトップPCが置かれた小さな机のすぐ横に本棚があり写真集が並んでいる。いまたまたまその中から2010年にAKAAKA社から出版された「126ポラロイド さよならからの出会い」という写真集を引っ張り出して捲ってみた。これは横浜美術館の小さな展示室で写真展を観たような微かな記憶があり、それに合わせて発刊された写真集で、たぶんだけどポラロイドのフイルムがなくなるのに合わせたのだろうか、いろんな人が撮ったポラ写真を集めている。ぱらぱらとみていると、これはよく思うことだけど、晴れた日、陽の光の下で撮られた写真、街の写真でも、室内に差し込んだ陽だまりの中に置かれた静物でも、晴れた日の写真に、いちばん郷愁のようなことを感じます。過去にも太陽の光がいまと同じように降り注いでいた、そしてその同じ太陽の光が降り注ぐ中で、皆が暮らしていた、幸せとはそういうことだった。それが12年前に撮られていても、もしかしたら昨日に撮られていても、等しく今日ではない過去のある日にも太陽が照らしていたという事実が、郷愁になっている感じがするのだ。そしてそれは上の写真のような、デジカメで撮った写真の、フイルム時代ましてやポラロイドが持っていた色再現性よりはるかに正確な色再現の写真を見たときよりも、フイルム時代のとくにポラロイドなどの色再現性(あるいは色空間ではなく別のなんらかの正確でないフイルムまたはポラ写真特有の見え方)が実景とはずれて見せる写真、写真が不正確な色再現であることそのことが、郷愁を呼ぶ要因になっている気がする。すなわち写真とは・・・『写真とは写真特有の、人の目が見ているのとは異なった、より狭い色空間や輝度再現範囲で不完全に写し取られた静止し定着された静止画像であり、その不完全さが呼び起こす感情(郷愁等)がその価値となっている』なんていう新定義を定めると、むしろそれが解釈を手助けしないだろうか。

 戦争が起きる前のある場所に降り注いだ太陽の光と、戦争が起きて不幸がやってきたあとにある場所に降り注いだ太陽の光が不変であり、それと対比してなんと人類の間抜けで忙しなくて慌て者で、すなわち馬鹿者であることか!というような後悔が、今日ではない、今ではない、太陽の光があったことが過去に撮られた写真を今に眺めることで、痛感されているのかもしれない。それが郷愁というか、過去の方がいつも今よりはましだったといった後ろ向きな気持ちを呼ぶのか。写真とはそういう特性があるのかもしれない。

 ・・・などと書くことが浮かばないので、本棚にあった一冊の写真集を捲ってみて、感じたことを書いてみました。が、これは上の写真をアップしながら上の写真を否定しているようなことになってますね(笑)

 今日はアイスクリームの日だそうだ。だけどアイスクリームを食べたいとは思えない寒さ。