ホームの端っこ


 茅ヶ崎駅東海道線普通電車ホーム(5/6番線ホーム)の東京寄りは、途中から立ち入り禁止になっていて、その先に使われていないホームが延びている。この写真は立ち入り禁止の柵から、使われていないホームを撮ったもの。
 終電車が行ってしまって、駅の「本日の営業」が終わったあとに、こっそりとこの使われていないホームに忍び込み、ビールを飲んだりラジオを聞いたり、寝転がって星空を眺めたりというのはどうだろう?ときどき深夜の特急貨物列車が走って来て、遠ざかっていく。ラジオからはフィフス・ディメンションの「アクエリアス」が流れてくる。おセンチな物語の一場面。そういうことを何日か過ごすうちに、やがて「同志」がやって来て・・・。そして彼らは何を話すだろう?何を計画するだろう?
 もっとホームのひび割れが増えて、もっと夏草がたくさん出てくるといいのにな・・・

 今日の夜は会社の同僚のお父様の通夜に参列。

 ボルヘス著「再審問」を読み始める。読書中の本は十冊を越えているのではないか?中には忘れてしまったまま読み終えない本も出てくるのだろうな。

 通夜に出かける前、とある方の写真に関するブログを読んでいた(昨年来ときどき読んでいるブログで、その方と面識もないしメールやらでコンタクトをしたこともない)。とても素敵な白黒写真をアップしていらっしゃる。そこに『ウェブ上にはたくさんの写真があり、その中にはとても似通った写真も多い。しかしそれぞれの写真に写された光景はそれを撮った人にとってはそれぞれすべて特別な瞬間である。日常の凡庸さは、個の立場からすれば、特別なことが総体している。ということはネット上に集積された多くの写真の総体こそが現代を現しており、だから非常に多くの仲間達で現代を写しているのではないか』ということが書いてあり、なんだかすごく暖かい気分になると同時に、共感を覚える。
 そんな後に通夜の帰りの電車にてボルヘスのエッセイ「コウルリッジの花」を読んでいたら、1938年井ポール・ヴァレリーが書いたこととして『文学の歴史は作家たちの歴史であったり、彼らの生涯や作品の経歴における偶発的事件の歴史であってはならない』『(文学の)歴史は作家の名前などだれひとり持出さなくても書くことができるだろう』を挙げている。
 同じエッセイの最後には『ある作家を厳密に模倣する人たちの意識は没個人的なものである』ともある。
 あるいは磯崎憲一郎氏が芥川賞受賞後のインタビューで「小説という大きな力の流れの一部でありたい」といったことを言っている。
 なんだか、きちんと明確化された共通性を説明できないが、個ということと個の集まりが作り出す流れみたいなことを考えていたのが今晩のこと。写真を撮るときに「自分らしさ」を追求したいような気持ちもあるけれど、そんなことに肩肘張らなくてもいいんじゃない、とも思ったような。

(モノクロを一枚)