一人で夏の公園で読む本

 今日も在宅勤務。外に出たのはすぐ近くのコンビニエンスストアに一度行っただけです。良くないな・・・。

 というわけで写真は2013.07.21.の代々木公園でのスナップです。今日は写真を撮らなかったから。

 真夏に一人でこんな風に噴水のある公園の水辺に来て日光浴をしながら本を読む。暑いだろうけれど、きれいにこんがり肌を焼きたいと思うのであればそれも、成果(焼けた肌を見て満足すること)だろう。さて、では今からこの場所で、暑ければパラソル立てたりしても可として、どんな本を読むのがいいのだろうか?

 これはないな、と思うのは、ものすごい吸引力で読み進みたくなるような長編の推理小説なんだけど、意外にそれでもいいのかしら?写真を見ていて思うのは①本は読む②水辺を渡って来た涼しい風を感じる③たまに風に乗って池の水の水滴が頬に当たってふっと顔をあげたりする④周囲の人々の立てる騒音を聞いて自分は一人であっても雑踏の中の孤独がちょっと楽しいと感じる⑤鳥の声、蝉の声、葉擦れの音、噴水の水滴が水面に落ちる音を聞く、といった①~⑤のような「それじゃあ読書に集中してないじゃん!」を同時に求めているってことで、そういう集中しないで②~⑤に反応しつつの①の本を読むのだから・・・すると詩集の一篇を読んでからそれを噛みしめつつ②~⑤を楽しみまた次の一篇を求めて①に戻るという循環がいいんじゃないか。詩ではなくても、ショートショート(短編の中でも短いやつ)とか日記文学や、そういうのを選びたくなる。そして、こうして写真を見たり、あるいは数日後に行く旅行の行き帰りの新幹線(や飛行機)で読む本を夢想するときに、これは私の癖のようなことなのか、日本のちょっと古い作家を選ぶ頻度が高まったりします。

梶井基次郎城のある町にて檸檬の入っている短編

・川端の掌の小説

・数十年ぶりで漱石の「こころ」の再読

・(まだ読んでないままずっと持っている)阿部昭の緑の年の日記

・(今読んでいるのでここに挙げるのもなんだけど)ブローティガンアメリカの鱒釣り

・(15年前写真仲間のHさんに教えてもらって以来何度も読んでいる)伝奇集

・でも新しいところで買ったけどまだ読んでいない滝口悠生の「長い一日」

どうでしょう?もっと気楽に

・春樹の初期短編の再読にしましょうか。「午後の最後の芝生」とかを。

 

 写真同人ニセアカシアの写真仲間のHさんにボルヘスの伝奇集を勧められたのが20年前までは行かないけれど15年くらいは経った。あの頃、冥王星が太陽系の第九惑星から「格下げ」になる件についてHさんと深夜にメール(ガラケー時代)のやり取りで盛り上がったことを覚えています。いまさら惑星じゃないと科学的根拠を持って分類を変えられても、もう冥王星は第九惑星としての文学的な価値を持ってしまっているから戸惑いが大きい、なんて話をしたかもしれない。

 そのメールのやり取りをしていた場所は北関東の当時の単身アパートの部屋で、もう読書灯だけで暗くしてベッドに横になりながらだった。その光景がなぜか視点が窓際にあってベッドや読書灯やガラケーを触っている私を別の誰かが見ているような光景として覚えている。

 伝奇集では「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の持っている読中読後に感じる「雰囲気」が大好きでした。ちょっとだけ怖くて、それは永遠とか時間とか死を、とくに若い頃に怖くなる感じに少しだけ似ていて。