9月らしさの所以


 朝、朝刊を読み終え、お湯を沸かしてカップ麺(トムヤムクンフォー)を食べてから、コンパクトデジカメを首にぶらさげ、ポケットに小銭と換えの単三電池4本(私のコンデジは単三電池駆動)と携帯電話を入れ、自転車で茅ヶ崎漁港へ。そこから海沿いのサイクリング道路を西へ。柳島海岸あたりで写真を撮り、国道134、鉄砲通り、浜見平中央から北へ行き、昼過ぎに帰宅。すっかり9月なのだが何がそう感じさせるのか?
 海の家の取り壊し作業、漁船の船溜りでの家族連れの釣り、遠くに見える地引網、海水浴客がいないこと、飛び交うとんぼ、穏やかな波、綿雲が浮かぶ青空。何か9月の所以はこれだろうと、適当な理由をでっち上げることは出来そうだが、でも本当にこういう、ここに書いたようなことがその所以なのかな?自分の知らない(意識できない)季節に対する検出能力が肉体には備わっていて、視覚だけでなく全ての感覚器や、その感覚器の時間軸方向の記憶による参照結果が、季節を割り出していて、その割り出した結果が太古から遺伝子に組み込まれた9月ゆえの感情に作用する・・・なんてこともあるような、ないような。
 それともただ単純に9月になったということが社会生活者として当然インプットされていて、それが子供時代の「夏休みが終わってしまう寂しさ」により作られた季節感を刺激しているだけ?そんなことはないだろう。

防波堤の隙間にたまった砂からはえている植物

茅ヶ崎港から西の海岸は東の海岸に比べて広がりがある。

 人は元来仲間が必要で集団で暮らしていくもので、それ故に、それに反して一匹狼みたいな行動を取ろうという、本来でない行動を取ってみようとする反骨の輩が現れて、彼等だって一人で生きることなんか本当は出来ないけれど、でもそれを確認するためにもそうしていて、そういう輩が若い中からある割合で出てくることが種の活性化になることがあって、その割合が減っているとすればそれは進化からの後退かもしれない。などと自転車を漕ぎながら思っていたが、なんとまあくだらないことを・・・、とここに書いてみて思った。