鎌倉へ


 昼、妻と由比ガ浜のラ・ジュルネへ行く。カレーを食べる。
 そのあと3番地で珈琲を飲む。
 妻と別行動となって、歩いて鎌倉駅方面へ。写真を撮りながらゆっくり歩く。上の写真とか。商店街のペットショップのカナリヤ。

 きっと今までにもこのノボリゾウ日録に同じことを書いたことがあったと思うけど、母の方の祖父母はカナリヤをたくさん飼っていた。
 そのころ祖父母は群馬県前橋市にある大学病院の木造平屋の官舎に住んでいた。すぐ裏に川が流れていた。その川から引きこんだ清流が家の前の下水道をするする流れていて、よく笹の葉の船を流して遊んだ。
 孵ったカナリヤの小鳥をもらってきて、当時(私が小学生のころ)の家の玄関に鳥かごをつるして飼っていたこともあった。成鳥になり盛んに鳴いていたカナリヤだったが、でもある日、死んでしまった。寒すぎた冬の朝だった。前の晩、鳥かごに布を被せるのを忘れたから。あのころ、昭和30年代の冬はいまよりずっと寒くて、庭の直径1mくらいの小さな池にはった氷の上に乗れる日もあった。もちろん子供だったからだけど。
 寒いとか暑いとか、そのときにはすごくそれを痛感するけれど、すぐにその温度の感覚は忘れてしまって、寒かったことの証拠としてそういうエピソードを持ち出している。実際にそういう皮膚で感じた温度の記憶ってエピソードを介さずにダイレクトな記憶としては残っていない・・・気がする。。。が皆さんはどうなんでしょ?

 18時よりカフェ・ゴーティーでtorico!(良原リエ)とスモール・カラー(良原リエと大西ユウスケのユニット)とレイチェル・ダッドのライブを聴く。レイチェルダッドは前回にゴーティーに来たときにも聴いたのだが、そのときよりずっと良かったな。神秘的で澄んでいて美しかった。ギターやバンジョーやピアノを弾き語りする、まあたぶん分類すればフォークシンガーということになるのだろうけど、良原リエ氏の説明によれば、レイチェルはコードの押さえ方とか何も知らなくて、自分の耳をたよりに自分だけのチューニングとギターの押さえ方を編み出しているそうです。small colorの演奏もそれに近しいと思うけれど、レイチェルの歌は自然の中で聞えてくる風の音や波の音、葉ずれの音や雨だれの音、そういう音を人間が整理して音楽という形式で表現しているのだとすると、その素材にものすごく近しいと思う。聴衆20名弱、ミュージシャンたちは観客の中に埋もれるようで、まるで誰かの家のホームパーティのようなゴーティでのライブはいつも、その空間の魅力もあいまって、暖かさに包まれる。

レイチェル・ダッドのことはtorico!(良原リエ)氏のブログに詳しい。
http://tricolife.dreamlog.jp/
上記ブログの12/14「Rachael Daddのこと」を読むと音楽家からみた彼女の魅力が書かれています。