益子へ


 10月号の日本カメラに掲載されている写真家大和田良氏の「風景の存在感を考えるための記録」というタイトルのグラビアの最後のページに『日々のスナップは写真とはなにかと考えながら生活することにとても近しいことだといえるのかもしれない』と書かれていた。なんとなく共感できる気がして、でもよくよく考えるとやっぱり煙に巻かれたような気分になる。
 森山大道は「写真とは光と時間の化石である」(これもうろ覚えなので全然違ってたりして・・・時間と記憶の化石だっけかな?)、写真機はコピー機である、と言っていたような。
 はてさて、写真とは何か?

 大和田グラビアの一枚目の写真は都市(ビル群)を高いところから俯瞰撮影したようなよくある光景の片隅にその光景を眺める人の頭部が一つだけ写っていて(・・・って、ちょっと前に見たものの、既に記憶は間違っているかもしれないが・・・)、その頭があることで見慣れたような写真が、すごく新鮮でかつ持っている印象も変化してしまう、そのことにちょっと驚いた。

 23日、雨。22日までの猛暑日から一転、最高気温は20度を切っている肌寒さ。須田塾のTIさん、M本さん、亞林さん、と四人で益子へ。行きの電車から、帰りのバスから、ずっと雨に濡れた窓越しに写真を撮って行く。晴れていれば、初秋の田園風景がきらきらと輝いているのだろうが、雨でくぐもった風景はぱっとしない。でも、後日になると実は記憶に残るかもしれない。
 益子では陶芸美術館でルーシ・リー展を見る。製作年月日を見ると、もちろんその作品を作ったときのルーシー・リーの年齢が判る。その年齢が今の自分の年齢に程近いころの作品だったりすると、自分ではなくルーシー・リーに流れた時間がもたらしたものの深さのようなことが、突然に思い知らされて、すると呆然としてしまうのだった。人に流れた時間の蓄積から創出された作品を見ていると、自分にはそういう創出は出来ないにしても、そこに共感のような気持ちが生じたのだろうか?よく判らないのだが、とにかく呆然としたのだ。

 その後、皆で蕎麦を食べて、何軒かのお店を見て周った。それぞれが買った器をそのあとに立ち寄った宇都宮の餃子屋で「見せっこ」した。みなそれぞれ自分にとっては選んだ特別な器で、だからそういう風に、買ったその日のうちに見せっこしても、やっぱり自分の買ったものがいいと感じるものですね。他の人はどうだったのだろう?

 そのあと、店を変わってからは写真にまつわるプランのことばかり話した。帰路、雨上がりの夜に、なんかいい気分だった。