庭をめぐれば


 ヴァンジ彫刻庭園美術館で開催中の「庭をめぐれば」展とIZU PHOTO Museumで開催中の「アラーキー写真集展」を見に、三島からバスに乗りクレマチスの丘まで行ってきた。「庭をめぐれば」展には写真では川内倫子長島有里枝、木村友紀、古屋誠一が出展。ほかにも奈良美智草間彌生の作品も出ている。ストロボさえ使わなければ写真を撮って良いと言われ、長島さんのSWISSに収められている花の写真の主被写体の後ろぼけしているあたりなんかを斜めから接写してさらにボケを拡大しつつデフォルメして遊んでみたらなんだかかっこいい写真が写ったような気がしたが、やっぱり抵抗感があってここにアップするのは気が引けますね。
 植原亮輔と渡邉良重による「時間の標本」は、ページの黄ばんだ洋書や日本の本の真ん中あたりのページのとじ合わせを中心にした左右に羽根をの形を切り抜き、そこに正確に色を付けた蝶が作られている。その本が標本箱風のケースに何冊もきれいに並べられていて、まさに昆虫の標本箱を思わせる。ビデオ作品も置かれていて、閉じられているその本から蝶のページが開かられるところが続くビデオと、一方ではそのページが閉じられるビデオが流れる。その上にはプロジェクターにより壁に蝶が飛ぶ影絵のような動画が写っている。いろいろと考えるきっかけになる構成で本のページに書かれていることを読んでみたりで、ずいぶん時間を使ってうろうろと標本箱のあいだを行ったりきたりする。

 古本屋に並んでいる数千冊の本や、ジャズ喫茶の棚に置かれている数千数万枚のLPレコードの背表紙を見ていると、これらの本やレコードが次に読まれるとき、あるいはプレイヤーに載せられて回るときが、それぞれに来ることがちゃんとあるのだろうか?と思うことがある。昨年だったか、京都の某ジャズ喫茶のマスターに、全てのLPが順番にいつの日か回るように、選ばれる順序にそういう均等再生のような配慮があるのか、といったことを聞いてみたのだが、質問の真意があまり伝わらなかった。そういう本やレコードを読んだり再生したりするときに、それを読む人、聴く人がそこに感じることは、多岐にわたるだろうけれど、しかも初めて手にする本であっても黄ばんだ古本であるということ(初めて聴くレコードであってもスクラッチノイズがまとわりついた音楽であるということ)がもたらす感情には新刊やCDにはない、やっぱり記憶にまつわるなにかがあって、その何かが、やっと訪れたその瞬間にふわっと飛び立って読む人や聴く人をふわりと包み込むような、ちょいとセンチなことを想像すると、そのふわっと飛び立つイメージの具現として蝶を使ったというようなことを自分なりの解釈として見つけ出したのだが、やれやれ、そんなことはさておいて、もっと言葉にならない、それでも言葉で言うとすると「なんとなくの雰囲気」を楽しまなければ狭量なのだろうな。
 などと書くと、ほかの作品もみなそういうことが隠れていて、なんだ、そういうことを庭を巡りながら考えたりするのがすなわち庭なんだな、とか思いました。

 三島駅に戻り、まえにクレマチスに来たときにも帰りに寄った「キッチンとん」で老シェフの作るハンバーグ目玉焼き定食を食べてから、さいきん家で大人気のお菓子「こっこ」を買ってから帰る。熱海から茅ヶ崎までずっと寝てしまった。


これは「時間の標本」の動画の作品のモニター画面の接写。