西へ、そして「北へ」


 Tが京都に住んでいるうちに、京都の年末年始を過ごしてみたいものだと思い立ち、先週に引き続き、再び新幹線に乗り京都へ。途中米原あたりの雪景色を通り越し、快晴の京都に10時過ぎに到着した。
 東福寺。ひさしぶりに、雪舟が造園しその後荒れていたところを重森三玲が復元したという石庭がある、塔頭芬陀院へ行く。石庭にはうっすらと雪が残っている。庭を眺めながらぼんやりと過ごす。雪舟の庭だけでなく、重森三玲が作った東の庭もいい。たくさんの烏が鳴き交わしている。雲が出て太陽を隠すと、途端に寒々とした光景になる。そこにある石庭の石の組み方を造っていくときのノウハウがあるのだろうが、その石の散らばり方がいいと思う。いや、本当は「散らばり方」などではなく、その石で現した仏教の世界なりを読み解くことが出来ればそれの方が正しい向き合い方なのかもしれないが、英語のロックの歌詞が判らなくてもその曲が好きになるように、かな・・・石の散らばり方に惹かれる。とくに東の庭の石の散らばり方は何度来ても、魅力的だ。もしかしたら石庭の石の散らばり方の「妙」は、すぐれたスナップ写真に写された街角の光景を構成する通行人の位置の散らばり方の「妙」と似ているのかもしれない。後から来た観光客は丸窓のある茶室から東の庭を眺めていく。重森三玲の意図もそうなのかな。私は廊下から見るのがいいのだが。

 東福寺から京阪で祇園三条へ。うどん「おかる」で昼食を食べようかと思って歩いて行ったが、列が出来ているので通り過ぎる。ずっと歩いて東大路に当たるちょっと手前に、九条ねぎ蕎麦の文字を見つけ入ってみたら、カウンターが7席くらいの小さなバーだった。目刺を焼いてもらう。それを食べてから九条ねぎ蕎麦を食べる。身体があたたまる。今日は寒い中を歩くだろうという予定から、ヒートテックのシャツとタイツを履いている。そのせいで身体が一層に暑くなるのだろう。大晦日の夜に、この祇園や八坂神社あたりがどんな人出になるかをあとから来た夫婦の旅の客がおかみに聞いている。先に私が店を出るときに、旅の夫婦のご主人から「いい旅を」と言われる。「いい旅をと誰もが言った」片岡義男の短編集のタイトルを思い出した。いい旅をしたいものだ。ちょっと軽快な足取りになり八坂神社から円山公園、そこから高台寺や寧々の道のあたりを横切り、一気に清水寺まで登った。2月にニセアカシアのメンバーで清水寺に来たときに、逆光の清水の舞台で大勢の観光客を撮った。それが印象に残っていてまた同じところへ撮りに行くことにしたのだ。 

 清水坂を降りて、六道珍皇寺へ行き、小さな窓から閻魔様と小野篁の像を拝む。松原通を西へ、幽霊飴の隣にあるカフェ・ヴィオロンに立ち寄る。店内は暖かく、カメラのレンズやメガネのレンズが曇った。中煎りのブラックを頼む。店主が珈琲を運んできて、その豆がどこの産だったかを説明してくださったがどこの豆か忘れてしまった。ただ、そのとき、林檎のような味がすると言ったことはよく覚えている。珈琲を口の中にとどめて舌のいろんな部分で味わうと、舌の先っぽで林檎の味を探り当てたように思えたのだった。

 さらに西へと歩いて行く。鴨川を渡り、高瀬川沿いに北上。四条から先斗町へ。三条に出て西へ。寺町を上がり京都市役所の西側を行き、三月書房に立ち寄った。この書店ではもう時間た経って売れ残ったような本(古書ではない)に「B」というマークが押印されていて、定価の50〜80%引きで売られている。
 中央公論社の現代詩人シリーズの12、吉原幸子、同じく10の飯島耕一。白凰社の青春の詩集シリーズの西脇順三郎詩集を購入。旅行に出る前なるべく荷物を軽くすべく、徹底的な荷物削減を行うのだが(ただし一眼レフカメラは持っていく)、こうして旅先でいつもいつも、何冊もの本を買ってしまうというこの悪癖。

 そのあと、丸太町あたりで夜定食ありますと書かれていた店に入り、海鮮丼の夕食。ずいぶんと歩いている。結局は出町柳駅まで歩いた。出町柳のジャズ喫茶ラッシュライフに入る。本日二度目の珈琲。サッチモのLPがかかっている。やがて二人、三人と常連さんらしき客が入ってきて親しげに会話が弾んでいるから、こちらはまるで「異邦人」のように余計に孤独なのだった。いや、孤独なんて、そんな単語は使いたくないな。

 夜、Tは友人たちと夜を徹して予定があるようで帰らないとのメール。一人で布団に入り、買ってきた詩集を読む。吉原詩集を全部読む。恋愛やそれを含む生きることに、右往左往ではなく、絶望の縁を覗き込みつつも、そこに落ち込まないための吐露が連なるような苦しさ。しかし、ときに詩の一節に輝きが見えると、一瞬の雲間の光のようで美しい。「北へ」という詩がある。
 独房の壁に 名を刻む/北へゆく者が/南へゆく者に/すれちがひざま 名を告げる/詩とはそのような行為だ/とあなたは言はれた//わたしはいま/北へ向かってゐる とおもふ/白い太平洋をわたる鳥のように/もう だまりたい//(北極はどこだ/高すぎて/遠心力で地球からはがれさうだ)//わたしがゐた といふことを/みんなが忘れてしまっても/わたしが記憶しておかう/けれど//南へゆく鳥たちよ/うつくしいふるさとに/よろしく

 吉原幸子の経歴を読んでいたら私の母と同じ年に生まれていることとか、終戦の年に群馬県の敷島村に疎開していることとかが知れた。昭和20年、敷島公園のどこかで母とすれ違ったかもしれないな、などと思う。